戸川猪佐武からの年賀状

 

1960年に戸川猪佐武が出した直筆の年賀状

年賀状には人生があらわれる。住所が違うだけでも、暮らしの変化をみてとれる。


 『小説吉田学校』で知られる政治評論家、戸川猪佐武の年賀状をみよう。宛先は戦前に講談社、戦後は文化放送やフジテレビの幹部などを務めた萱原宏一である。


 手元にあるもっとも古いものは1958年に出された年賀状だ。当時、戸川は読売新聞政治部に在勤中。文面は「謹賀新年 昭和33年元旦」と簡潔で、その下に氏名と住所、勤務先が刷られている。直筆はない。プリンターなどない時代のことだ。わざわざ印刷所につくらせるところに政治部記者の人付き合いぶりを感じなくもない。

 つづくのは60年。「昨年は拙著、月信で御批評いただきました上、御懇篤なお手紙をいただき、まことに有難うございました。今年もなにかと御指導のほど、お願い申し上げます」。前年、戸川は読売新聞勤務のかたわら、初の著書『昭和現代史』を出版している。

 戸川は62年、読売新聞社を退社してフリーの政治評論家として活動をはじめる。翌63年の年賀状に直筆の書き込みはないが、刷られた文面には意気が感じられる。

《本年が、皆様にとつて、発展と幸運の年であることを、心から願っております。
 私も微力ながら、テレビ・雑誌など言論活動を通じて、私たちの声を、政治経済の上に反映させるよう、努力する所存です。ご指導ご鞭韃をお願い致します。なお、機会がございましたら―東京テレビ「ニュースコープ」木・金・土曜・后6時半、日本テレビ「ニツポン問答」日曜・后11時―をごらんいただきたく存じます。ご髙評をたまわれば幸甚です。》

 フリーランスのすべり出しは順調だったようだ。もっとも、この年、総選挙に出馬して惨敗するのだが。

 あらたに「事務所」として平塚市新宿と東京都千代田区麹町のマンションの住所が記載されている。地元に事務所を構えていたのをみるに、活発な露出は選挙の事前運動だったのだろうか。

 残るのはずっと下って76年のものになる。戸川にとっては、伴走し、「保守本流=角栄」神話の流布に手を貸した田中角栄の権勢がもっとも落ちているころである。

《旧年中はいろいろとお世話になりました。
 おかげさまで、「小説吉田学校・第四部」、「政権争奪」、「陰謀の軌跡」(昭和の内幕)三冊を上梓することができました。
 今年は、私なりにかねて書きたいと思っておりましたものを、手がけてみたいと思っています。
 なにかと、ご指導、ご鞭撻をたまわりたく存じます。
 皆さまにとっても、今年が佳き年であることを念じております。》

 事務所の住所は、70年に入居したホテルニュージャパン363号室に変わった。「週刊新潮」83年3月31日号によると、自宅のある平塚には週末だけ帰り、そのほかは東京や講演で各地をまわる日々だったという。

 このニュージャパン、戸川にとって愉快な環境ではなかったらしい。「部屋は古くなるし、サービスも悪い。それに横井(註・英樹)になってからは、ホテル形式だから、当然、家賃の中に含まれているはずの電気代まで取り立てるようになりましたよ」(「週刊新潮」82年2月25日号)。同ホテル時代、戸川の事務所で働いていたのが「防衛フィクサー」とされる秋山直紀だ。

 82年2月、ニュージャパンは死者33人を出す火災に見舞われる。戸川は「ホテルニュージャパン火災住人被害者の会」の代表として横井を刑事告発するなど、後始末の前面に立つ。事務所はかの「パレロワイヤル永田町」に移った。

 手元の年賀状はとうに途切れたが、戸川の最期にまで触れよう。以下は「週刊新潮」83年3月31日号から引く。83年3月18日、戸川は映画「小説吉田学校」の試写会に出た後、竹下登の「議員25年の会」、赤坂「ざくろ」での映画関係者との会食をはしごして、午後10時ごろ、ニューオータニ1267号室の定宿に帰った。翌午前2時前、フロントに女性の声で「先生の具合が悪いんです」と電話が入る。救急隊員が駆けつけたときにはすでに息絶えていた。

 弟の作家、菊村到は同記事で戸川がいわゆる“腹上死”したことを打ち明けている。「人間、一番いい時に死ぬっていうのが、一番いいんです。『吉田学校』も映画化され、一番華やかな時に死んだんですから幸せだったと思います。まして、腹上死っていうのは男の本望ではないでしょうか。腹上死は別に恥ずかしい死に方ではありません。幸せな死に方です。ちょっと体裁悪いけど、奥さんも娘さんも冷静に受け止めていますよ。兄貴らしい特徴的な死に方だと思います」

 戸川の妻も取材に応じている。「凧を上げるには、糸を引っ張ってはいけない。糸をゆるめて自由に泳がせてやりたいと思っておりました。それが女房の心得だと思います。だから、女性が同宿していて亡くなったことに対して、ショックはありませんでした」。部屋にいた女性は銀座の行きつけの店のホステスだったという。