衆議院本会議傍聴(2024年10月9日)

 代休をとって衆議院本会議の傍聴に行った。言うまでもなく解散の瞬間である。

 過去4回、解散をみるため現地に行った。1回はみられなかった。2014年の伊吹文明議長の、実際にはフライングではない「フライング万歳」のときである。いらい午前7時に一番乗りすることをつづけた。ばかじゃないのか。ばかだと思い、今回は常識的な時間に向かった。

 まえにも書いたとおり、本会議の傍聴は人が多ければ予約をとり、そこから呼ばれるしくみになっている。予約は面会受付で名前を記入すれば済む。開会の予定は15時半。昼を食べよう。きょうは「はしご」にしよう。はじめて入った。

 呼び出しは14時半。無事に名前を呼ばれ(呼ばれないこともありうる。詳しくはhttps://ohanabatake38.hatenablog.com/entry/2022/10/30/230809議場に向かうと衛視とべつの事務局職員がケンカをはじめた。ケンカというか、衛視が職員の指示にキレている。「きょうは傍聴人の数が多いものですから・・・」「こっちだっておんなじですよ!!!」。解散のようなイベントは本当に傍聴人が多い。

 議場に入り、開会10分前に予鈴が鳴ると、自民党議席にぽつんと吉川赳議員が座る。不祥事で党を離れた吉川議員は両院議員総会などに出席する必要はない。徐々に議席が埋まる。立憲議席最前部で若手議員の肩をたたくのは海江田万里副議長。議場入口では茂木敏充自民党幹事長がある議員と立ち話していた。議員は手帳を開く。議員は今期で不出馬の××××議員にみえ、え?と思ったが、自信がないので名前を出すのは控えよう。

 目下ピンチの高木毅氏が近づいたのが共産党議席だ。引退する穀田恵二氏に声をかけて握手。ついでに隣席の塩川鉄也氏とも握手。最後まで国対政治家である。高木氏につられたか、ややあって後ろに座る公明党赤羽一嘉国交相も穀田氏に声をかけた。こういう風景をみられるのが傍聴の醍醐味だ。地元で大もめの神田憲次議員は議場でもっとも赤いネクタイを揺らしながら入場。闘志のあらわれか?

 内閣不信任案がかかることもあり、閣僚がひな壇に入る。まっさきに目に入ったのは村上誠一郎総務相ひとりだけオーラが違うのが三原じゅん子こども相。当然、石破首相の向かって左隣は空席。

 額賀福志郎議長が入ってきた。細田博之前議長の弱々しい姿が記憶に新しいだけに颯爽とした印象を持つ。ほぼ全員が起立して議長を迎える。

 「ギチョーーー」と呼び出しするのは井野俊郎議員。やまびこのようによく響く。すこし長い気もするが声がいい。「石破内閣不信任決議案は・・・」。上程を求める動議に「異議なし!」。自民党議席からも響いたのは、儀礼か、それとも・・・。解散はすべての動議に優先される。官房長官を待つあいだ「延命!」と聞こえるヤジ。そして「ギチョーーー」というヤジ。

 官房長官から衆議院事務総長に詔書がわたった。議長が起立し、自民党議席も起立する。立憲議席は着席。まあそうなるか。ん?最前列で山岸一生議員がキョロキョロしているぞ。立憲も最前列の議員から立ち上がった。ほかの立憲議員も立ち上がる。

 「日本国憲法第7条により衆議院を解散する」。そこに「第何条だ!」とたたみかけるようにまたヤジが飛ぶ。万歳は起きない。所在ない額賀議長は窮して「御名御璽」までかすかな声で口にする。万歳はない。

 衆議院解散は起立も万歳のタイミングも、議員の所作の相当部分が〝空気〟で動く。傍聴席でみるとそれが実によくわかる。おかしな万歳三唱といえば先述の伊吹議長のときだが、それ以後は普通どおりにやっていたのだ。今回は「何条だ」というヤジに額賀議長が当惑し、議長の姿に議員も動けず、すべてがもつれたようにみてとれた。どんな内容のヤジでも言ってみるものである。

 長かった。みかねたように自民議席中盤から「バンザイ」の声が響く。追随するようにほかの議員も万歳三唱。

 なんなんだこの解散は。吉川赳議員が駆けだすように議場を去ったのがようやく目に入る。私は万歳三唱は政局の空気を映すと思っている。2009年の政権交代解散のさいは、当時の河野洋平議長が「いままで議員をやってきたなかでもっとも声がそろっていた」と評したほど見事なものだった。一方、自民党が割れ、野党にとっても不本意だったそのまえの05年・郵政解散はばらばらもばらばら。今回の万歳三唱は、野党がそっぽを向いて議長サロンで解散詔書を読むことをしいられた1986年の死んだふり解散のようなものを除けば、戦後政治のなかでもトップクラスにグダグダだったことは間違いない。議場の空気は政治の空気である。
 

 

戸川猪佐武からの年賀状

 

1960年に戸川猪佐武が出した直筆の年賀状

年賀状には人生があらわれる。住所が違うだけでも、暮らしの変化をみてとれる。


 『小説吉田学校』で知られる政治評論家、戸川猪佐武の年賀状をみよう。宛先は戦前に講談社、戦後は文化放送やフジテレビの幹部などを務めた萱原宏一である。


 手元にあるもっとも古いものは1958年に出された年賀状だ。当時、戸川は読売新聞政治部に在勤中。文面は「謹賀新年 昭和33年元旦」と簡潔で、その下に氏名と住所、勤務先が刷られている。直筆はない。プリンターなどない時代のことだ。わざわざ印刷所につくらせるところに政治部記者の人付き合いぶりを感じなくもない。

 つづくのは60年。「昨年は拙著、月信で御批評いただきました上、御懇篤なお手紙をいただき、まことに有難うございました。今年もなにかと御指導のほど、お願い申し上げます」。前年、戸川は読売新聞勤務のかたわら、初の著書『昭和現代史』を出版している。

 戸川は62年、読売新聞社を退社してフリーの政治評論家として活動をはじめる。翌63年の年賀状に直筆の書き込みはないが、刷られた文面には意気が感じられる。

《本年が、皆様にとつて、発展と幸運の年であることを、心から願っております。
 私も微力ながら、テレビ・雑誌など言論活動を通じて、私たちの声を、政治経済の上に反映させるよう、努力する所存です。ご指導ご鞭韃をお願い致します。なお、機会がございましたら―東京テレビ「ニュースコープ」木・金・土曜・后6時半、日本テレビ「ニツポン問答」日曜・后11時―をごらんいただきたく存じます。ご髙評をたまわれば幸甚です。》

 フリーランスのすべり出しは順調だったようだ。もっとも、この年、総選挙に出馬して惨敗するのだが。

 あらたに「事務所」として平塚市新宿と東京都千代田区麹町のマンションの住所が記載されている。地元に事務所を構えていたのをみるに、活発な露出は選挙の事前運動だったのだろうか。

 残るのはずっと下って76年のものになる。戸川にとっては、伴走し、「保守本流角栄」神話の流布に手を貸した田中角栄の権勢がもっとも落ちているころである。

《旧年中はいろいろとお世話になりました。
 おかげさまで、「小説吉田学校・第四部」、「政権争奪」、「陰謀の軌跡」(昭和の内幕)三冊を上梓することができました。
 今年は、私なりにかねて書きたいと思っておりましたものを、手がけてみたいと思っています。
 なにかと、ご指導、ご鞭撻をたまわりたく存じます。
 皆さまにとっても、今年が佳き年であることを念じております。》

 事務所の住所は、70年に入居したホテルニュージャパン363号室に変わった。「週刊新潮」83年3月31日号によると、自宅のある平塚には週末だけ帰り、そのほかは東京や講演で各地をまわる日々だったという。

 このニュージャパン、戸川にとって愉快な環境ではなかったらしい。「部屋は古くなるし、サービスも悪い。それに横井(註・英樹)になってからは、ホテル形式だから、当然、家賃の中に含まれているはずの電気代まで取り立てるようになりましたよ」(「週刊新潮」82年2月25日号)。同ホテル時代、戸川の事務所で働いていたのが「防衛フィクサー」とされる秋山直紀だ。

 82年2月、ニュージャパンは死者33人を出す火災に見舞われる。戸川は「ホテルニュージャパン火災住人被害者の会」の代表として横井を刑事告発するなど、後始末の前面に立つ。事務所はかの「パレロワイヤル永田町」に移った。

 手元の年賀状はとうに途切れたが、戸川の最期にまで触れよう。以下は「週刊新潮」83年3月31日号から引く。83年3月18日、戸川は映画「小説吉田学校」の試写会に出た後、竹下登の「議員25年の会」、赤坂「ざくろ」での映画関係者との会食をはしごして、午後10時ごろ、ニューオータニ1267号室の定宿に帰った。翌午前2時前、フロントに女性の声で「先生の具合が悪いんです」と電話が入る。救急隊員が駆けつけたときにはすでに息絶えていた。

 弟の作家、菊村到は同記事で戸川がいわゆる“腹上死”したことを打ち明けている。「人間、一番いい時に死ぬっていうのが、一番いいんです。『吉田学校』も映画化され、一番華やかな時に死んだんですから幸せだったと思います。まして、腹上死っていうのは男の本望ではないでしょうか。腹上死は別に恥ずかしい死に方ではありません。幸せな死に方です。ちょっと体裁悪いけど、奥さんも娘さんも冷静に受け止めていますよ。兄貴らしい特徴的な死に方だと思います」

 戸川の妻も取材に応じている。「凧を上げるには、糸を引っ張ってはいけない。糸をゆるめて自由に泳がせてやりたいと思っておりました。それが女房の心得だと思います。だから、女性が同宿していて亡くなったことに対して、ショックはありませんでした」。部屋にいた女性は銀座の行きつけの店のホステスだったという。

 

 

安倍元総理追悼演説傍聴(2022年10月25日)

25日を代休にして、野田佳彦元総理による安倍晋三元総理への追悼演説を傍聴しに行った。

午前6時に家を出た。たいがい国会傍聴というのはマニアしか行かない。そんな場合は開会ギリギリでも傍聴席に入れる。しかし、重要法案の審議など世間の耳目を集める日というのは違う。早めに整理券を確保しなければ門前払いを受けるのだ。

午前7時すぎに到着。一番乗り。当たり前だ。いくらなんでも早すぎる。自分の馬鹿さ加減がいやになる。

8時に受付が始まった。私と同様に並ぶ人は数人程度しかいない。衛視から「きょうは議員紹介の傍聴者が多いので入れない場合もあります」と伝えられた。以前にも書いたが、議員紹介の傍聴者は優先的に通され、一般の傍聴者よりもいい位置に座ることもままある。これは私はしかたないと思っている。インターネットで吠える口舌の徒よりも、後援会活動などで議会政治を基底で支える人のほうが優遇されるのは当然である。それに、経験則的には、議員紹介の傍聴者ですべてが埋まることはない。

時間をつぶして11時に町村会館へ。初対面の栗鼠島(Twitter:@Kaikaku_forum23)さんをお誘いし、先方の案内で地下の「ペルラン」で昼食をとった。しゃれたネクタイをされていて、よれた背広を着たこちらは冷や汗をかく。国会近くにこんな店があるとは知らなかった。二階派の仕出しもしていた伊豆栄は閉店してしまった。目下墜落中の細田博之衆院議長お得意で、政治家の来店も多い赤坂「ピッツェリアギタロー」は、正午前からの営業で時間的に厳しい。ここは店の少ない永田町で重宝しそうだ。

午後0時半から入場が始まる。入口の面会所受付に戻ると栗鼠島さんからTwitterのフォロワーという方を紹介された(IDもうかがったが、迷惑をかけるかもしれず伏せます)。お話しすると、以前に竹下亘の追悼演説に行かれたことがあるという。関西財界に関心があり、とりわけ関経連の松本正義会長に興味があるとおっしゃっていた。奇特な方がおられるものだと思った。人のことを言えた義理ではない。

議場に入って最初に目についたのは鳩山二郎議員。つづいて長坂康正議員と談笑するのはいま話題の斎藤洋明議員。0時52分ごろ、安倍元総理の遺影をかかげた安倍昭恵氏が入ってきた。カメラマンのフラッシュはたかれたが、議員は上にいることもあり気づいていない様子。直後に岸信夫・前防衛相が自民側の入り口そばの議席最後部裏に車いすをとめた。脇には紺色の小机が置かれ、こうして議席とするのかと妙な関心をしてしまう。右隣にはやはり体調不良の吉野正芳・元復興相も車いすで並ぶ。吉野氏もしばらく車いす生活をしている。

高木啓議員は入場時深々と一礼。鈴木英敬議員にあいさつした小泉進次郎・元環境相がにこやかに議席のあいだを歩く。氏名標を起こすのが心なしかやけっぱちのように映るのは吉川赳議員だ。追悼演説の日であろうが日常どおりで、これでいいとも思う。

閣僚も入ってきた。岸田文雄首相はあの歩き方。寺田稔総務相はこじんまりとした風情。大臣に耳打ちする秘書官のような。

「これより会議を開きます。さる7月4日に逝去されました議員安倍晋三君に対し弔意を表するため、野田佳彦君から発言を求められております。これを許します。野田佳彦君」。細田議長が発する。声が小さい。お歳か、それともべつのことか。

モーニングコートに身を包んだ野田元総理が拍手に迎えられながら演壇に上る。さまざまな論議を呼んだこの追悼演説だが、野党席を含めみな拍手を送っていた。

「あなたは不帰の客となられました」。そうか「あなた」と呼ぶのかと思う。議場は拍手もためらわれる緊張に満ちていた。「初登院の日、国会議事堂の正面玄関には、あなたの周りをとりかこむ、ひときわ大きな人垣ができていたのを鮮明におぼえています。そこにはフラッシュの閃光を浴びながらインタビューに答えるあなたの姿がありました。私にはその輝きがただまぶしくみえるばかりでした」。名門政治家の系譜を背にする安倍元総理と、自衛官の家に生まれ、係累に政治家などいない野田元総理をくっきりと対照させる一言である。

「もっとも鮮烈な印象を残すのは、平成24年11月14日の党首討論でした」。野田元総理にとって、解散を約したあの党首討論をどう思っているんだろうと、気になっていた。「私は議員定数と議員歳費の削減を条件に衆議院の解散期日を明言しました。あなたのすこしおどろいたような表情。その後の丁々発止。それら一瞬一瞬をけっして忘れることができません。それらは、与党と野党第一党の党首同士が、たがいの持てるものすべてを賭けた、火花散らす真剣勝負であったからです」。少々、かっこよすぎる。野田元総理は泉下の安倍元総理をいまもなお「政治家」として遇しようとしているのではないか。「あなたは、いつのときも、手ごわい論敵でした。いや、私にとっては、かたきのような政敵でした」

そんな解散をして、はたして野田元総理は下野に至る。第2次安倍内閣親任式でふたりだけになったシーンを振り返った。「同じ党内での引き継ぎであれば談笑がたえないであろう控え室は、勝者と敗者のふたりだけが同室となれば、シーンと静まりかえって、気まずい沈黙だけが支配します。その重苦しい雰囲気を最初に変えようとしたのは、安倍さんのほうでした。あなたは私のすぐ隣に歩み寄り、『お疲れ様でした』と明るい声で話しかけてこられたのです。『野田さんは安定感がありましたよ』『あの「ねじれ国会」でよくがんばり抜きましたね」『自分は5年で返り咲きました。あなたにも、いずれそういう日がやって来ますよ』温かい言葉を次々と口にしながら、総選挙の敗北に打ちのめされたままの私をひたすらに慰め、励まそうとしてくれるのです」。受け止めによっては勝者の不遜な言葉である。むろん、安倍元総理に野田元総理をいやしめる意図はなかっただろう。それでも野田元総理のほうはそうは感じなかった。「そのときの私には、あなたの優しさを素直に受け止める心の余裕はありませんでした」と率直に認める。

「でも、いまならわかる気がします。安倍さんのあのときの優しさが、どこから注ぎ込まれてきたのかを」。そう言って第1次内閣での失敗に触れ「あなたもまた、絶望に沈む心で、控え室での苦しい待ち時間をすごした経験があったのですね」。内閣総理大臣という職業はどす黒い孤独に覆われる。これは、そんな感慨に満ちたふたりのあいだだけで交わそうとした言葉であっただろう。

当時の選挙で野田元総理は失言していた。「総理大臣たるには胆力が必要だ。途中でお腹が痛くなってはダメだ」。振り返り、深々と頭を下げた。自民党議席に目を移すと、目頭をぬぐっているように映るのは池田佳隆議員か。

上皇陛下の譲位をめぐってふたりで密かに話し合ったエピソードを明らかにした後、声を張り上げて語った。「憲政の神様、尾崎咢堂は、当選同期で長年の盟友であった犬養木堂を5・15事件の凶弾で失いました。失意の中で、自らを鼓舞するかのような天啓を受け、かの名言を残しました。『人生の本舞台は常に将来に向けて在り』。安倍さん。あなたの政治人生の本舞台は、まだまだ、これから先の将来にあったはずではなかったのですか。再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった」

「勝ちっぱなしはないでしょう、安倍さん」

野田元総理の演説には、いつもユーモアと背中合わせになったペーソスが漂う。その真面目があらわれた一節だ。

演説の流れは変わる。「どんなに政治的な立場や考えが違っていても、この時代を生きた日本人の心のなかに、あなたのありし日の存在感は、いま大きな空隙となって、とどまりつづけています」。そしてこうつなぐ。「そのうえで、申し上げたい」

「長く国家の舵取りに力を尽くしたあなたは、歴史の法廷に、永遠に立ち続けなければならないさだめです。安倍晋三とはいったい、何者であったのか。あなたがこの国に遺したものは何だったのか。そうした『問い』だけが、いまだ宙ぶらりんの状態のまま、日本中をこだましています。その『答え』は、長い時間をかけて、遠い未来の歴史の審判に委ねるしかないのかもしれません。そうであったとしても、私はあなたのことを、問いつづけたい。国の宰相としてあなたが遺した事績をたどり、あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も、この議場に集う同僚議員たちとともに、言葉の限りを尽くして、問いつづけたい」

政治家の追悼演説は難しい。同じ立場の議員ならば、ただ賛辞を述べればよい。賛辞を述べることはけっして悪いことではない。儀礼の場だからだ。

安倍元総理への追悼演説は少々違った。自民党内のみっともない混乱があった。野田元総理が演説を引き受けるかどうかをめぐり、極端な政治的感情を持つ野党支持者も騒いだ。

この一節が、野党政治家としての急進的な支持者へのポーズであったとみる向きがある。その一面はあるだろう。しかし、これが野田氏の遁辞でしかないとみれば、野党政治家としての野田元総理をおとしめるものだ。野田元総理は一貫して非自民の立場で歩んできた政治家だった。自民党政治に対する“敵”である。この一節は、野党政治家としての矜持をもった“追及”だった。

そして、こうつづいた。「政治家の握るマイクには、人々の暮らしや命がかかっています。暴力にひるまず、臆さず、街頭に立つ勇気を持ち続けようではありませんか。民主主義の基である、自由な言論を守り抜いていこうではありませんか。真摯な言葉で、建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱なものへと育てあげていこうではありませんか。こうした誓いこそが、マイクを握りながら、不意の凶弾に斃れた故人へ私たち国会議員が捧げられる、何よりの追悼の誠である。私はそう信じます」。万雷の拍手のなか、野田元総理が演壇を去る。

退席する昭恵氏に自民議員がみな一礼。演説が終わると、いつもどおりの国会だった。議事進行係の佐々木紀議員が「ギチョーーー」。「ようし!」。やたらと声がそろっている。小さな声の細田議長が裁判官弾劾裁判所などの人事をめぐり確認を進める。「裁判訴追委員に後藤茂之君」。あれ、後藤氏って新・経済再生担当相に内定しているのに。議場がざわめく。

岸田首相の発言に入る。山際大志郎経済再生担当相の辞任をめぐる陳謝だ。閣僚の辞任をめぐり、総理が時間をもうけて国会で発言するなど、はじめてみる景色である。野党議席からは「これで終わりじゃない」などとさかんにヤジが飛ぶ。立憲・逢坂誠二代表代行の激しい追及にも自民議席からヤジはない。つづく維新・金村龍那議員の発言に立民議席米山隆一議員が両手を口元に添えてヤジ。声が通っていない。国民・浅野哲議員、共産・塩川鉄也議員の発言がつづく。岸田首相の答弁に自民党議席からの拍手はまばらだった。

「このさい、暫時休憩いたします」。この日もっとも大きな細田議長の声だった。

その後の審議を途中までみて退席した後、野田元総理の演説を反芻した。

普通の追悼演説離れした、わずかに挑発をにじませたものだった。先述したとおり、野党政治家としての言葉だったのだろう。そして、ただの野党政治家の発言でもない、とも思う。政権交代のある景色になって、与党と野党、政治家とまた政治家の距離感はいっそうさぐりがたくなった。対抗意識はたやすく憎悪に転じる。憎悪はあってはならないわけではないが、みせられる側はいい気持ちではない。なにより、憎悪だけで与党と野党は付き合えない。

野田元総理にとって、あの演説には野党としての決意をみせる意図はあっただろう。もう一方で、直前の混乱をみるにつけ、政権交代ある景色にあって、対抗与党(対抗野党)への屈服や卑屈に堕さないながら品位を保つ、ひとつの語りかけ方を示していたようにも映る。それは、人間野田佳彦にとっては、政権交代によって味わった栄光と挫折に裏打ちされたものかもしれない。

ぶつけられた言葉に安倍元総理はなんと応えていただろうか。厳しく論駁するのも、“キレる”のも、政治家の花道である。戦闘的な政治家にとって、もっとも幸せな送別だったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

石破茂はディーゼルの香りに酔う(石破・前原誠司鉄道トーク傍聴記)

「国際鉄道模型コンベンション」で日本信号ブースを訪ねた石破茂氏(21日、東京ビッグサイト


21日に
東京ビッグサイトで行われた「国際鉄道模型コンベンション」で「令和鉄道放談」と称した企画が行われた。だれあろう、政界鉄道マニアの両雄、石破茂氏と前原誠司氏が鉄道の話に興じる趣向だ。

 

特設会場には鉄道ファンがずらり。鉄道関連誌編集長の司会は開口一番「われわれの仲間として『石破さん』『前原さん』と呼びたい」という。「生臭い話を抜きに」とも話していたが、とりこし苦労ではないかもしれない。ともに防衛通でしばしば「タカ派」とも評されるふたりだ。話すことじたい、時期が時期なら憶測を呼ぶだろう(みたところ、政治部記者らしき姿はなかったが)。

 

「石破さんは特急出雲に1000回乗った」「前原さんは蒸気機関車を形式ではなく番号で語る」と紹介され、最初に話題を振られたのは石破氏だった。「石破さんの地元の特急『やくも』が国鉄色に塗り替わった」。「これはうちの選挙区ではないので・・・」。石破氏がおなじみの口調で返すと会場の笑いを誘った。「こないだね、因美線に何十年かぶりに気動車急行『砂丘』というのが走ったんです。国鉄時代の色って本当にいいね。ぜひみんな塗り替えてください。お願いします」。つづく前原氏も子どものころの思い出話を語り「やっぱり国鉄色っていいですね。来週、京都鉄道博物館に行くんですが、EF66の27、ニーナってご存じと思いますが、みてきます!」と宣言。会場から拍手を浴びる。

 

話題は特急やくもの新型車両導入に移った。「新しい車両って素敵なんですけど、なんだかわくわくしない。新幹線でも0系がよかった、寝台車でも20系がいちばん素敵だったんですけど、歳なんですかね」と石破氏。 前原氏は自身の撮影した鉄道写真の解説に入った。春の連休で磐越西線を訪ねたという氏が「大好きな場所」として挙げたのは三川(新潟県阿賀町)。「ここの四季を撮るのが本当に好き。早春の真白い雪、桜の季節若葉の季節もいい。三川の発車の汽笛が山のなかをこだまして夕刻出てゆく。すばらしい光景だと思います」としみじみ。 石破氏は特急「出雲」の思い出にひたる。身を乗り出して写真に見入りながら「このDD54はディーゼルなのにカッコよかったですね。DD54の引く出雲って本当素敵でした」。さらに急行「大社」に言及し「乗り通しました。非常に不思議なルートを通る急行でした。大学生で長い時間乗りたいと思った。しょっちゅう方向が変わり、ここはどこの世界(という感じ)」と振り返る。

 

石破氏は、司会からディーゼルの排気の臭いについて問われた。「ディーゼルが好きな人ってあのディーゼルの香りがなんともいえないのね。国鉄時代の車両ってなんともいえない不思議な香りがするじゃないですか。あれがいまのJRの列車のはまったくない。悲しいようなさみしいような」。実感の伝わる答えである。

 

話題は前原氏がはじめて撮った写真のことに。「小学校6年生の春休み、日豊線南宮崎電化が4月24日だったと思いますが、その直前。どうしても九州のSLに会いたいと。とくに私は門デフのC55が好き。親父が勤めを休んで4泊5日で京都から日南に乗って、小倉で降りて。鹿児島線から折尾、折尾から若松へ。『SLダイヤ情報』で調べたら臨時の貨物列車とすれ違うと。複線なんですね。待ち構えていたらD60の61号機。これはいまも保存されています。大好きな機関車です」。話はつづく。「最後のC61が牽くと。18号機が残ってまして。それが牽いてくると待っていたら細いボイラーでC61じゃないなと、なおかつプレートが赤かった。みなさんご存じのとおり、C57の117号機は最後のお召し列車を牽いたんです。C61ではなかったが、C57の117号機が私のいちばん好きなC57になった。この後の発車シーンも撮ってます」

 

会場スクリーンに国土交通大臣時代の前原氏が山梨県内で機関車を撮影する写真が映し出される。「D51はなかなかきれいに撮れない。気に入った写真はありません。本当に難しい」。両親が境港出身の前原氏は、子どものころは里帰りは急行「白兎」や夜行鈍行「山陰」を使ったという。鳥取出身の石破氏へ「米子機関区は私もなじみのある機関区」と話す。

 

前原氏の話の流れから、石破氏はサンライズ出雲が「私の選挙区は電化されていないので来てくれない」とぼやく。「DD51が引っぱるなら鳥取へ来ないかと言ったら『2階建てで車高が高い。明治のトンネルは通れない』とにべもなく言われた。乗ろうと思えば乗れないことはないが、直通じゃないって悲しいですね」。しんみりしたかと思えば、直後に三段式の寝台車の写真に「20系」と紹介した司会へ「これは14系」とぴしゃり。怖かった。

 

石破氏は寝台車に深い思い入れがあるようだ。「三段式のいちばん上は安い。天井のカーブがある。14系が電動でガーッと上がるようになったんですよ。20系までは寝台をつくる係がいましたからね。名人芸であっというまに組んでくれた。電動で動くようになって、すげえなと思ったがつまんねえのとと思いました」。14系になって乗り心地が悪くなったのではないかと問われた石破氏は「私は乗り心地を気にしたことがなく、乗れたら幸せ。そんなことはどうでもいいです」と力を込める。

 

前原氏も寝台車体験を語った。「京都から新幹線を逃すと急行「銀河」か出雲になる。出雲は東京につく時間が早い。ゆっくり乗るなら銀河。昔は東京温泉という銭湯があったんです。降りたら東京温泉へ行くと。そうすると野中広務先生がおられて、裸でごあいさつすることもありました。議員の方もけっこう利用されていたと思います」 。さらに前原氏はトワイライトエクスプレスに2回乗った話などをしながら「石破さんは北海道へ講演するときは飛行機ではなくて『北斗星』や『カシオペア』にしろというたぐいの方」と評す。「『だいせん』の話をすると石破さんに負ける。私が自信を持って言ったことをくつがえされたこともあったんです。政治の話もするんですけど、飲みに行ったら鉄道の話もして、だいせんのことは石破さんに聞かれたほうがいいです」と石破さんを指した。ふたりの関係性が伝わるではないか。

 

指名された石破氏と急行『だいせん』のつながりはこうだ。「最終の飛行機に乗れる時間に地元の会合は終わらない。出雲が出る時間にも、夜行バスの時間にも終わらない。そうすると急行『だいせん』にしか乗れない。100回は乗ったね」。さらに熱は増す。「北海道の選挙応援や講演はしんどいんです。時間かかるから。ほれほれと北斗星の切符をひらひらされると『行きます!』」「北斗星に乗ったことは孫の代に語りたい、ぜひ復活させてください」と訴えた。

 

司会はふたりへクルーズトレインについて問いかけた。「車体のなかを作る事業者は私の支援者」という前原氏は「いろんな価値を発掘して鉄道需要につなげる発想は素晴らしい」と評価する。石破氏も「ななつ星に2回乗った。夢のような時間だった」とべたぼめ。「感動これにまさるものはない。いかに危機的な夫婦でも救われる。すごいらしいよ」と軽い調子でつなぐと「付加価値って『この金を出してもほしい』の総和。そういうもんじゃないですかね」と評した。

 

会場のスクリーンには寝台車で見ず知らずの客が乗り合わせた写真が映し出された。「これはいいですよね」と感に堪えない様子の石破氏。「夜行列車の素敵さは半分地元というところ」といい、鳥取から東京へ出てホームシックになった高校時代を振り返った。しばしば東京駅13番線を訪れたが「(降車客が)地元の言葉をしゃべっている。東京にいながら地元の雰囲気を味わえる」と感じていたという。「夜行特急の寝台車に乗った人がけんかしているのをみた覚えがない。妙に仲良くなる不思議な空間」と懐かしんだ。

 

石破氏は乗客としても寝台車を愛している。「通るのは山間部だから電話は圏外。電話が通じないってこんなにうれしいことはない。個室で誰も来ない、電話がかからない、映画はみられる、酒は飲める。あそこでリセットしてさあがんばるかと。あの時間がなかったら議員はつづけられなかった」。 食堂車の思い出もあるという。「食堂車で農協や建設業協会が宴会をやっている。やたらめったら飲む。完全にふらふら。目が覚めたら財布がないことを2回やられました」

 

前原氏も食堂車には忘れがたい記憶を持つ。松下政経塾に合格した帰りの新幹線で前原氏は不安に襲われたという。「違う世界へ進むことでどんよりした気分になった。食堂車でビールを飲みながら窓をみて、自分自身を奮い立たせた」

 

駅弁が象徴するように、鉄道旅行は食と深く結びついている。石破氏は「コンビニ弁当で一日が終わる。すごく悲しいのね。これから先、農業、漁業の時代というからには、そこ(旅行先)のおいしい弁当があると、そこのお米を食べてみたいなとか気になるはず。世の中なんとなく味気なくなっている。感動が凝縮されているのが夜行列車。どうしたら喜んでもらえるかという方向に戻ってほしい」と訴えた。

 

トークライブも終わりにさしかかった。司会が「鉄道150年でも元気がない」と切り込むと、前原氏は「悲しいことですが人口が減ってゆく。人口が増えているときでも高速道路や空港もあれもこれもと作りすぎた、そのなかにあって人口が減少。鉄道基金の運用益も出ない。社会状況の変化で鉄道をどうやって残すかが政策の問題」と指摘。「一個人として鉄道を残してほしいと思いますが、これからは地域の方々との話し合いをしてゆくなかで、残すなら地域でどれだけサポートされるか、国がどういった支援をするか、残さないならどういった代替案があるか。じっくり数年かけて話し合って地域の方が納得するのが大事なことだと思う」「鉄道として全部残すのはおそらく無理だと思います。いまは国鉄末期よりはるかにお金がかかっている。鉄道が好きというだけで残せという議論にはならない。丁寧に話し合うことが大事と思う」と言い切った。

 

石破氏の発言はやや色合いは異なる。「儲からないから道路やめましょうという話を聞いたことがないんです。同じ公共交通機関でもなんでこんなに発想が違うのと」「人口が減る中で鉄道をどうやって使ってゆくか。『乗って残そう』で残った鉄道なんてひとつもない。どうやって乗りたくなる鉄道、行きたくなる街をつくるかという議論をしないままに『赤字だからやめちゃえ』という発想はすごく無責任と思う」と主張。「『国や街、鉄道会社なんとかせい』ではできない。鉄道って歩くことを求める。鉄道単体で考えず、日本の中で鉄道をどうしようという話をちゃんとしたい」と結んだ。

 

最後にふたりは鉄道ファンへのメッセージでトークをしめくくった。先月、コロナ感染した前原氏は、隔離期間中に鉄道模型に興じたという。「HOゲージを持っているんです。5年間走らせてなかったのに年間2、3両ずつ買っていた。天賞堂に行ったり。あんな危険なことはないですね。買わないぞと心に決めてもなにか買ってしまう」。半日かけて議員宿舎の自室を掃除し、レールを敷いた前原氏は「鉄道は乗るのも模型も楽しい。趣味があるのはすばらしいことだと思います」と話す。「われわれは政治家なので」と「インバウンド、国内の方に鉄道や地域のすばらしさを再発掘してもらい、地域経済につなげる。そういったことに取り組ませてもらいたい」と意気込みを語って締めた。

 

前原氏が鉄道模型なら、石破氏は「お盆に2日間夏休みがあり『六角精児の呑み鉄本線・日本旅』をみていました。あれ面白くない?めちゃくちゃ面白いよね」。視聴して「それぞれの地域の人、産物を味わうのが鉄道じゃないか」と感じたといい、「高齢化や人口減少、一極集中解消など国の目標はいっぱいある、その解決に鉄道をどう使えるか」というのがカギとみる。「鉄道好きどうし仲が悪い人はみたことがない。飲みながらでいいですよ、鉄道を使ってどうやって新しい日本をつくろうかという話をしましょう」

 

熱いトークライブだった。ときに、政治家が政治以外のものを語る姿はぎこちないものだ。相当の趣味人と見受けるふたりもまた、政策の領域に入った話のほうが熱がこもっていた気がしたのは、気のせいだったのだろうか。

【資料】老人党(関口安弘氏)の設立主旨、理念

関口安弘氏は2010年参院選東京選挙区に「姫治けんじ」名で立候補して以来、参院選東京都知事選、江戸川区長選に出馬してきた候補だ。選挙によって名前を使い分けるなどのわからないところもあるが、直接お目にかかれば温厚で丁寧に人と接する紳士である。

政策はさまざまだが、憲法改正への思いはつよい。氏は不定期に地元・江戸川区の公民館などで自らの主張を訴える場をもうけているが、そこでも憲法に関する話をするのがつねだ。よく参加者に意見を尋ね、そのたびに私の答えは「現実的に難しい」と評される。分別がないということなのだろう。

ある種の選挙候補にみられることだが、氏はしばしば自らの政治団体の名称を替える。最初の選挙では「平和党核兵器廃絶平和運動」を名乗っていたが、その後は「地球平和党」、「民主主義と自由を守る連合」と転じた(詳しくは関口氏と親しいマーク・ウィテカーさん[@tefsk]のツイートをご覧いただきたい)。地球平和党時代にはホームページのなかに「財政再建党」なるもののページもあった。

2020年東京都知事選に無所属で出馬された折、投開票前日の演説に足を運ぶと「老人党(シルバークラブ)」という団体の「設立主旨」や「活動理念」などをみせていただいた。氏がご病気をされたあとに参加したという、葛西臨海公園のごみ拾いのボランティアと組んでいるらしい。かつての地球平和党について訊くと「現実的ではなかった」と評価されていた。

老人党、といってなだいなだや「41歳寿命説」の西丸震哉らが浮かぶ人はあろうが、どうも関口老人党の資料はネット上に乏しいようだ。氏の温和な人柄を思い起こしつつ、写した画像を紹介したい。

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老人党について説明する関口安弘氏(2020年7月4日、JR新宿駅南口)

テレビコメンテーター 京極純一

学識ある知人から、NHK「週刊ヤング情報」という番組の存在を知らされたのが23日のことだ。いや、日をまたいで酔いどれて話をしていたから、24日なのかもしれない。まあ、どうでもいい。知人の紹介する内容にひかれて川口のNHKアーカイブまで足を運び、ただ1回分が公開されているその番組をみた。

Wikipediaによると、「週刊ヤング情報」は1991年4月から翌年3月まで、NHK総合で土曜日23時半から翌日0時15分の時間に放送、若者を対象に時事問題を解説するというテイストの番組だったらしい。

司会は桂三枝(現・桂文枝)、これはなるほどと思う。アシスタント役とみられるのは羽野晶紀(羽野の出演は91年10月からで、私がみた回は別の女性出演者だった)、コメンテーターとして陣取るのが秋元康。さらにもうひとりのコメンテーターがいた。秋元の向かって左隣、4人の端にたたずんでいたのは、誰あろう京極純一だった。

秋元康京極純一の並び、桂三枝と言葉をかわす京極純一という画は異質だ。しかし、より目立つのが京極のコメントそのものだ。くだらぬ論評をまじえず、一部の発言をそのまま紹介したい。

なお、この回の放送日は不明。内容から91年4月の放送とは推測できる。

ゴルバチョフ訪日、首脳会談について】
三枝「しかし京極先生、まあゴルバチョフさんが残してくれたものは一体なんだったんでしょうかね」
京極「やっぱり指切りげんまん(※)をしてですね、さいならさいならまたね、という。その『またね』というところに味があるんじゃないでしょうか」
三枝「はぁー。結局進んだんでしょうか。進んでないんでしょうかね」
京極「まあこれから、あのー、ほどき方、ほどけ方しだいだと思いますねぇ」
三枝「さすがしたたかな政治家というイメージを我々」
京極「ゴルバチョフ大統領もしたたかでしょうが、こちら側も立派だったんじゃないでしょうかねぇ」
三枝「評価していいですかね」
京極「はい(笑顔で)やっぱり指切りげんまんさいならさいならと思いますけど」
三枝「そうでございますね」
(※91年4月18日、当時の海部俊樹総理とゴルバチョフ大統領は日ソ共同声明にあたり、指切りげんまんをするパフォーマンスをみせた)

自民党幹事長について】
三枝「これはエリート、首相への道と」
京極「大体は他党との交渉という意味では外務大臣でしょうし、党内の運用という意味なら大蔵大臣もみな兼ねてるわけですね。ですからまあ、会社の社長(※)というのはそのとおりだと思いますですよ。ぜひなりたい」
三枝「問われる能力といえば集金能力と」
京極「まあ集金もですが、やはり人心収攬能力ってのが大きいでしょうね」
(略)
三枝「小渕幹事長はいかがでございますか」
京極「立派だと思いますよ」
三枝「大丈夫なんですかね」
京極「それは(笑い)私が太鼓判を押す問題ではないと思いますけど」
(※直前のVTRでは自民党総裁の職責を「会社の会長」、自民党幹事長は「会社の社長」になぞらえて説明していた)

アルバニア情勢について】
三枝「先生、ここが貧富の差がほとんどないと」
京極「皆さんが貧乏だという意味で貧富の差がほとんどないと。日本なんかは皆さん金持ちで割に貧富の差がないと。まあ差がないだけですといろいろありますね。やはり豊かな差のない国、平等な国と、貧乏で平等の国と」
三枝「このたび大統領を決めて、やっていけるんですかね、この先」
京極「まあ皆さんががんばらなきゃだめだと思いますですねぇ」

【日本の外国人について】
三枝「これだけ外国人増えたら、われわれは外国人にどう接したらいいんでしょうか」
京極「普通に接していればいいんじゃないでしょうか。まあ普通にっていうか、肩肘張らないで、肩から力を抜いて」

桂三枝は司会をやりづらそうであった。

「吉田博美」とは何者だったのか

10月26日、自民党吉田博美・前参院幹事長が死去した。夏に体調不良で引退してから間もなくのことだっただけに驚いた。

吉田氏につけられる冠は「参院のドン」をおいてない。政治は“ドン”がいないとピリリとしないが、参院自民党というブラックボックスめいた空間を束ねる吉田氏はまさに一級の役者であった。

とはいっても、吉田氏が実力者として耳目を集めるようになったのは、実は最近のことだ。テロ等準備罪が俎上にのぼった2017年国会の策士ぶりが大きなきっかけだった。かつて竹下登は「歌手1年、総理2年の使い捨て」と言ってみせたが、寿命2年のドンとは奇妙な響きである。一種異様であり、それが後世に吉田氏を見るとき、深い霧のようになるのではないか、と思われるのだ。

後述する2017年国会における“暗躍”まで、私の吉田氏に対する印象は大したものはない。国交族。元金丸信秘書の根回し政治家。跳ねっ返りの山本一太氏までもブログで好意的に紹介していて人望は厚い。そんなものでしかなかった。それだけに、その国会中に1本の新聞記事を読んだときの驚きは大きかった。

テロ等準備罪を新設する組織的犯罪処罰法改正案が審議された2017年国会は始終混乱がつきまとった。答弁に立った金田勝年法相(当時)は答弁に立ち往生し、「私の頭脳が対応できない」という迷言まで飛び出す始末。衆院法務委員会で怒号に包まれた採決が行われ、本会議を通過すると、主戦場は参院に移った。誰もが会期延長を予想するなか、夏の東京都議選を前にして与党がとった判断は「中間報告」を通して委員会採決を省略し、いきなり本会議で採決するという奇策だった。

産経新聞2017年6月16日付朝刊2面に掲載された「22時間ちぐはぐ国会」という記事でその内幕が報じられた。そこで描かれたのは吉田氏の寝業師ぶりだ。二階俊博幹事長や連立を組む公明党から一任を取り付けた吉田氏は、松山政司国対委員長のみに作戦を伝え、電光石火の採決に踏み切った。さらには成立するや、加計学園問題の追及に躍起の野党に予算委員会集中審議の開催を約した。同紙は「野党にも花を持たせると同時に、中間報告を『加計隠し』とする狙いを封じ込める狙いだった」と解説している。狙いの適否は別にしても、審議を会期内に収め、政局に吉田氏の手腕は冴えわたった。私がこの記事で吉田氏の力量を知ってから、吉田氏が「参院の新実力者」としてさまざまな場で名前を見せるまではそう長くなかった。吉田氏の動きを報じることが多かった同紙が、「参院自民新ドン誕生で復権か」との記事で吉田氏の「参院自民を実質的に率いる」姿を報じたのが、同年9月6日付朝刊。やはり、このころに吉田氏が実力者として認識されるようになったということなのだろう。

参院のドン」としての吉田氏。2年間になにをしてきたのだろうか。

参院のドン」といっても、さまざまなタイプがいる。まず浮かぶのは、池田・佐藤政権期に権勢を誇った”天皇”こと重宗雄三。派閥化の波が押し寄せる前の参院自民党を掌握し、佐藤総理さえも立ち入れぬほどの聖域をつくりあげた。重宗が力を揮ったのは、保守合同が成り、“自民党政権”が定着化を始めた時代だ。第一党が権力を使うことに成熟し、参院の位置づけを探るなかでアッパーハウスの実力者としてふるまった重宗は、後世の「参院のドン」と呼ばれる人種のロールモデルともいえる。

つづいて浮かぶのは1990年代後半に活躍した村上正邦氏だ。重宗が“天皇”ならば、村上氏に週刊文春が与えた異名は「参議院の尊師」。剛腕で参院の存在感を向上させた村上氏と吉田氏には重なる面がある。いずれも足元が不安定だったということだ。生長の家の後押しで政界に出た村上氏は、1980年代に同教団がそれまでの政治活動から撤退すると、KSDの支援を受けるようになった。そうしてのちにKSD事件で失脚に追い込まれたのは周知のとおり。吉田氏は地盤の長野県選挙区が選挙区改正で2016年参院選をもって2人区から1人区となり、強固な後援会組織を誇る羽田雄一郎氏との一騎打ちを迫られて去就に悩んだ。“ドン”といえども選挙の前には人の子ということか。

輿石東氏も忘れてはならない。政局にたけた人材の少なかった旧民主党にあって、教職員組合で培った組織運営能力、調整能力を発揮して参院を束ねた。現職中は「左翼政治家」と呼ばれることがしばしばだった輿石氏だったが、その本質は「政局政治家」というべきだろう。

そのような“ドン”を数えるうえで抜かしてはならないのが、2000年代に権力の絶頂を極めた青木幹雄氏である。青木氏は参院を掌握したのみならず、自派の平成研を“抵抗勢力”から小泉政権の支持基盤のひとつに脱皮させ、政権の安定に貢献した。青木氏と小泉氏はつねに打算をはらんだ関係にあり、けっして“蜜月”とはいいがたい。徹底した政局政治家ぶりと影響は、歴史のなかで別格だったと評価されるべきだろう。

吉田氏は青木氏の愛弟子として地歩を固めた。金丸信、中島衛という田中派政治家の秘書育ちの吉田氏は、長野県議を経て1998年に初当選してから、議運・国対、あるいは田中派からの伝統ともいうべき国土交通行政を仕事の場とした。実力者として扱われた間、吉田氏は党参院幹事長を務めていたが、それまでに党参院国対委員長、幹事長代理、参院国土交通委員長などを歴任した。青木氏に引き上げられ、参院で強い影響力を持つ所属派閥・平成研の威光を背にキャリアに重ねたわけだが、没後に多くの議員が述懐したような独特の面倒見のよさをはじめ、吉田氏自身が持った才覚が台頭のテコになったことは言うまでもない。

吉田氏が「参院のドン」として注目を集めるようになったとき、同時に目を向けられたのが後見人格の青木氏の存在である。毎週水曜日に砂防会館の青木氏の事務所(吉田氏の引退後には、吉田氏自身の事務所にもなった)で昼食をとっていたというエピソードをはじめ、吉田氏は青木氏にコントロールされているのではないか、という疑念が広がった。ただの政治家でもなければ、ただのドンでもない。吉田氏は派閥の枷をはめられた派閥政治家だったのである。

派閥政治家としての吉田氏の大きな足跡となったのは、額賀福志郎会長から竹下亘会長への交代劇だった。早くから「総理総裁候補」と目されてきた額賀氏だが、人望に欠け、実際に自民党総裁選に出馬したことは一度もない。総裁になれぬ派閥領袖からは人心が離れる。お公家派閥といわれる宏池会でさえ、大平正芳会長誕生の前段にあったのは佐藤政権への協力が過ぎ、足元をみられていた前尾繁三郎会長へのクーデターだった。「ムラから総理総裁を出す」という気持ちが吉田氏をしてそうさせたのか。吉田氏もまた、額賀体制の打倒に動く。2018年初頭から額賀氏に退陣を迫り、参院の所属議員をまとめて派閥総会に欠席させるなどした。

平成研には参院がまとまって領袖を決めた歴史がある。前身の経世会時代にさかのぼって1992年、金丸信東京佐川急便事件で政界を逐われると、派閥の跡目を竹下登が推す小渕恵三小沢一郎氏で争った。衆院の多数を小沢氏が握っていたのに対し、竹下側は「中立」を示しし、多数派工作の的にもなっていなかった参院を掌握した。後継会長を決める派の最高幹部会で参院経世会会長の坂野重信は小渕支持を表明する。結局、小沢氏は領袖の座を逃し、最後は派閥を割ることになった。大勢が決まり、竹下・金丸と“手打ち”の会談に臨んだ小沢氏は竹下を面罵。終了後記者団を前に「もう竹下さんと会うことはない」とくやしがった(田崎史郎竹下派死闘の七十日』)。

このとき、竹下の意を体して参院の取りまとめや小沢氏へのメッセンジャーとして奔走していたのが青木氏だった。参院平成研には、そんな権力闘争の残り香が濃く残る。吉田氏が火をつけた政局は、退陣要求から約3ヶ月後、額賀氏が会長を退任することで決着した。

吉田氏がそのような行動に踏み切ったのは、同年の総裁選をにらんだものといわれる。実際、総裁選で吉田氏らは安倍総理と対峙する石破茂氏を支持した。一方で、当面の政治状況のなかにあっては、本心としては安倍政権の維持をよしとしていたようでもある。没後、吉田氏を取材していた産経新聞の田中一世記者が「一度親(青木氏)を裏切ったら一生、人を裏切る人間になってしまう」という板挟みに悩む肉声を明らかにしている(https://www.sankei.com/column/news/191102/clm1911020004-n1.html)。いかな参院のドンといえども、「青木幹雄の側近」であり、平成研の議員であった。“中間管理職”とでもいうべきか。

以前に、「吉田博美って同時代的には安定装置として存在感のある政治家だが、冷静に考えるとなにかをつくったり、あるいは壊したりしていない分、後世からみればわけのわからない政治家として映りそう」とツイートしたことがある。吉田氏はあるべきだった「なにか」を青木氏に封じられ、さまざまなものを形にする前にこの世を去った。安倍支持の意図も、石破支持の落着点も、形にする前に。自派の総裁候補である茂木敏充氏や加藤勝信氏への政権禅譲を望んでいたのか、あるいは個人的なシンパシーで安倍総理を支持していたのか(吉田氏は総理のお膝元、山口県出身である)、いまではわからない。

吉田氏は一貫して参院平成研の政治家として地歩を固め、参院平成研の政治家として力を揮った。あくまで氏に付されるべき冠は、誕生に力を尽くした“竹下派”ではなく、田中派竹下派の系譜を背にして、参院が権力闘争の先陣に立って生まれた“平成研”であった。平成研ブランドの遺産管理人である青木氏のもとにいる以上、そうならざるを得なかったのである。そんな“平成研”の政治家としての吉田氏の道のりは一貫性を欠き、不明瞭である。それが、後世に吉田氏をみるとき、理解を阻むように思われる。

もしも、ということを考えたい。もしも吉田氏が青木氏を越えて生きながらえたとき、氏がまとうのは“竹下派”、あるいはさらなる新領袖の派閥の衣だったはずだ。そのとき、卓越した政局政治家の眼前に広がる光景はなんだったのだろうか。