「吉田博美」とは何者だったのか

10月26日、自民党吉田博美・前参院幹事長が死去した。夏に体調不良で引退してから間もなくのことだっただけに驚いた。

吉田氏につけられる冠は「参院のドン」をおいてない。政治は“ドン”がいないとピリリとしないが、参院自民党というブラックボックスめいた空間を束ねる吉田氏はまさに一級の役者であった。

とはいっても、吉田氏が実力者として耳目を集めるようになったのは、実は最近のことだ。テロ等準備罪が俎上にのぼった2017年国会の策士ぶりが大きなきっかけだった。かつて竹下登は「歌手1年、総理2年の使い捨て」と言ってみせたが、寿命2年のドンとは奇妙な響きである。一種異様であり、それが後世に吉田氏を見るとき、深い霧のようになるのではないか、と思われるのだ。

後述する2017年国会における“暗躍”まで、私の吉田氏に対する印象は大したものはない。国交族。元金丸信秘書の根回し政治家。跳ねっ返りの山本一太氏までもブログで好意的に紹介していて人望は厚い。そんなものでしかなかった。それだけに、その国会中に1本の新聞記事を読んだときの驚きは大きかった。

テロ等準備罪を新設する組織的犯罪処罰法改正案が審議された2017年国会は始終混乱がつきまとった。答弁に立った金田勝年法相(当時)は答弁に立ち往生し、「私の頭脳が対応できない」という迷言まで飛び出す始末。衆院法務委員会で怒号に包まれた採決が行われ、本会議を通過すると、主戦場は参院に移った。誰もが会期延長を予想するなか、夏の東京都議選を前にして与党がとった判断は「中間報告」を通して委員会採決を省略し、いきなり本会議で採決するという奇策だった。

産経新聞2017年6月16日付朝刊2面に掲載された「22時間ちぐはぐ国会」という記事でその内幕が報じられた。そこで描かれたのは吉田氏の寝業師ぶりだ。二階俊博幹事長や連立を組む公明党から一任を取り付けた吉田氏は、松山政司国対委員長のみに作戦を伝え、電光石火の採決に踏み切った。さらには成立するや、加計学園問題の追及に躍起の野党に予算委員会集中審議の開催を約した。同紙は「野党にも花を持たせると同時に、中間報告を『加計隠し』とする狙いを封じ込める狙いだった」と解説している。狙いの適否は別にしても、審議を会期内に収め、政局に吉田氏の手腕は冴えわたった。私がこの記事で吉田氏の力量を知ってから、吉田氏が「参院の新実力者」としてさまざまな場で名前を見せるまではそう長くなかった。吉田氏の動きを報じることが多かった同紙が、「参院自民新ドン誕生で復権か」との記事で吉田氏の「参院自民を実質的に率いる」姿を報じたのが、同年9月6日付朝刊。やはり、このころに吉田氏が実力者として認識されるようになったということなのだろう。

参院のドン」としての吉田氏。2年間になにをしてきたのだろうか。

参院のドン」といっても、さまざまなタイプがいる。まず浮かぶのは、池田・佐藤政権期に権勢を誇った”天皇”こと重宗雄三。派閥化の波が押し寄せる前の参院自民党を掌握し、佐藤総理さえも立ち入れぬほどの聖域をつくりあげた。重宗が力を揮ったのは、保守合同が成り、“自民党政権”が定着化を始めた時代だ。第一党が権力を使うことに成熟し、参院の位置づけを探るなかでアッパーハウスの実力者としてふるまった重宗は、後世の「参院のドン」と呼ばれる人種のロールモデルともいえる。

つづいて浮かぶのは1990年代後半に活躍した村上正邦氏だ。重宗が“天皇”ならば、村上氏に週刊文春が与えた異名は「参議院の尊師」。剛腕で参院の存在感を向上させた村上氏と吉田氏には重なる面がある。いずれも足元が不安定だったということだ。生長の家の後押しで政界に出た村上氏は、1980年代に同教団がそれまでの政治活動から撤退すると、KSDの支援を受けるようになった。そうしてのちにKSD事件で失脚に追い込まれたのは周知のとおり。吉田氏は地盤の長野県選挙区が選挙区改正で2016年参院選をもって2人区から1人区となり、強固な後援会組織を誇る羽田雄一郎氏との一騎打ちを迫られて去就に悩んだ。“ドン”といえども選挙の前には人の子ということか。

輿石東氏も忘れてはならない。政局にたけた人材の少なかった旧民主党にあって、教職員組合で培った組織運営能力、調整能力を発揮して参院を束ねた。現職中は「左翼政治家」と呼ばれることがしばしばだった輿石氏だったが、その本質は「政局政治家」というべきだろう。

そのような“ドン”を数えるうえで抜かしてはならないのが、2000年代に権力の絶頂を極めた青木幹雄氏である。青木氏は参院を掌握したのみならず、自派の平成研を“抵抗勢力”から小泉政権の支持基盤のひとつに脱皮させ、政権の安定に貢献した。青木氏と小泉氏はつねに打算をはらんだ関係にあり、けっして“蜜月”とはいいがたい。徹底した政局政治家ぶりと影響は、歴史のなかで別格だったと評価されるべきだろう。

吉田氏は青木氏の愛弟子として地歩を固めた。金丸信、中島衛という田中派政治家の秘書育ちの吉田氏は、長野県議を経て1998年に初当選してから、議運・国対、あるいは田中派からの伝統ともいうべき国土交通行政を仕事の場とした。実力者として扱われた間、吉田氏は党参院幹事長を務めていたが、それまでに党参院国対委員長、幹事長代理、参院国土交通委員長などを歴任した。青木氏に引き上げられ、参院で強い影響力を持つ所属派閥・平成研の威光を背にキャリアに重ねたわけだが、没後に多くの議員が述懐したような独特の面倒見のよさをはじめ、吉田氏自身が持った才覚が台頭のテコになったことは言うまでもない。

吉田氏が「参院のドン」として注目を集めるようになったとき、同時に目を向けられたのが後見人格の青木氏の存在である。毎週水曜日に砂防会館の青木氏の事務所(吉田氏の引退後には、吉田氏自身の事務所にもなった)で昼食をとっていたというエピソードをはじめ、吉田氏は青木氏にコントロールされているのではないか、という疑念が広がった。ただの政治家でもなければ、ただのドンでもない。吉田氏は派閥の枷をはめられた派閥政治家だったのである。

派閥政治家としての吉田氏の大きな足跡となったのは、額賀福志郎会長から竹下亘会長への交代劇だった。早くから「総理総裁候補」と目されてきた額賀氏だが、人望に欠け、実際に自民党総裁選に出馬したことは一度もない。総裁になれぬ派閥領袖からは人心が離れる。お公家派閥といわれる宏池会でさえ、大平正芳会長誕生の前段にあったのは佐藤政権への協力が過ぎ、足元をみられていた前尾繁三郎会長へのクーデターだった。「ムラから総理総裁を出す」という気持ちが吉田氏をしてそうさせたのか。吉田氏もまた、額賀体制の打倒に動く。2018年初頭から額賀氏に退陣を迫り、参院の所属議員をまとめて派閥総会に欠席させるなどした。

平成研には参院がまとまって領袖を決めた歴史がある。前身の経世会時代にさかのぼって1992年、金丸信東京佐川急便事件で政界を逐われると、派閥の跡目を竹下登が推す小渕恵三小沢一郎氏で争った。衆院の多数を小沢氏が握っていたのに対し、竹下側は「中立」を示しし、多数派工作の的にもなっていなかった参院を掌握した。後継会長を決める派の最高幹部会で参院経世会会長の坂野重信は小渕支持を表明する。結局、小沢氏は領袖の座を逃し、最後は派閥を割ることになった。大勢が決まり、竹下・金丸と“手打ち”の会談に臨んだ小沢氏は竹下を面罵。終了後記者団を前に「もう竹下さんと会うことはない」とくやしがった(田崎史郎竹下派死闘の七十日』)。

このとき、竹下の意を体して参院の取りまとめや小沢氏へのメッセンジャーとして奔走していたのが青木氏だった。参院平成研には、そんな権力闘争の残り香が濃く残る。吉田氏が火をつけた政局は、退陣要求から約3ヶ月後、額賀氏が会長を退任することで決着した。

吉田氏がそのような行動に踏み切ったのは、同年の総裁選をにらんだものといわれる。実際、総裁選で吉田氏らは安倍総理と対峙する石破茂氏を支持した。一方で、当面の政治状況のなかにあっては、本心としては安倍政権の維持をよしとしていたようでもある。没後、吉田氏を取材していた産経新聞の田中一世記者が「一度親(青木氏)を裏切ったら一生、人を裏切る人間になってしまう」という板挟みに悩む肉声を明らかにしている(https://www.sankei.com/column/news/191102/clm1911020004-n1.html)。いかな参院のドンといえども、「青木幹雄の側近」であり、平成研の議員であった。“中間管理職”とでもいうべきか。

以前に、「吉田博美って同時代的には安定装置として存在感のある政治家だが、冷静に考えるとなにかをつくったり、あるいは壊したりしていない分、後世からみればわけのわからない政治家として映りそう」とツイートしたことがある。吉田氏はあるべきだった「なにか」を青木氏に封じられ、さまざまなものを形にする前にこの世を去った。安倍支持の意図も、石破支持の落着点も、形にする前に。自派の総裁候補である茂木敏充氏や加藤勝信氏への政権禅譲を望んでいたのか、あるいは個人的なシンパシーで安倍総理を支持していたのか(吉田氏は総理のお膝元、山口県出身である)、いまではわからない。

吉田氏は一貫して参院平成研の政治家として地歩を固め、参院平成研の政治家として力を揮った。あくまで氏に付されるべき冠は、誕生に力を尽くした“竹下派”ではなく、田中派竹下派の系譜を背にして、参院が権力闘争の先陣に立って生まれた“平成研”であった。平成研ブランドの遺産管理人である青木氏のもとにいる以上、そうならざるを得なかったのである。そんな“平成研”の政治家としての吉田氏の道のりは一貫性を欠き、不明瞭である。それが、後世に吉田氏をみるとき、理解を阻むように思われる。

もしも、ということを考えたい。もしも吉田氏が青木氏を越えて生きながらえたとき、氏がまとうのは“竹下派”、あるいはさらなる新領袖の派閥の衣だったはずだ。そのとき、卓越した政局政治家の眼前に広がる光景はなんだったのだろうか。