安倍元総理追悼演説傍聴(2022年10月25日)

25日を代休にして、野田佳彦元総理による安倍晋三元総理への追悼演説を傍聴しに行った。

午前6時に家を出た。たいがい国会傍聴というのはマニアしか行かない。そんな場合は開会ギリギリでも傍聴席に入れる。しかし、重要法案の審議など世間の耳目を集める日というのは違う。早めに整理券を確保しなければ門前払いを受けるのだ。

午前7時すぎに到着。一番乗り。当たり前だ。いくらなんでも早すぎる。自分の馬鹿さ加減がいやになる。

8時に受付が始まった。私と同様に並ぶ人は数人程度しかいない。衛視から「きょうは議員紹介の傍聴者が多いので入れない場合もあります」と伝えられた。以前にも書いたが、議員紹介の傍聴者は優先的に通され、一般の傍聴者よりもいい位置に座ることもままある。これは私はしかたないと思っている。インターネットで吠える口舌の徒よりも、後援会活動などで議会政治を基底で支える人のほうが優遇されるのは当然である。それに、経験則的には、議員紹介の傍聴者ですべてが埋まることはない。

時間をつぶして11時に町村会館へ。初対面の栗鼠島(Twitter:@Kaikaku_forum23)さんをお誘いし、先方の案内で地下の「ペルラン」で昼食をとった。しゃれたネクタイをされていて、よれた背広を着たこちらは冷や汗をかく。国会近くにこんな店があるとは知らなかった。二階派の仕出しもしていた伊豆栄は閉店してしまった。目下墜落中の細田博之衆院議長お得意で、政治家の来店も多い赤坂「ピッツェリアギタロー」は、正午前からの営業で時間的に厳しい。ここは店の少ない永田町で重宝しそうだ。

午後0時半から入場が始まる。入口の面会所受付に戻ると栗鼠島さんからTwitterのフォロワーという方を紹介された(IDもうかがったが、迷惑をかけるかもしれず伏せます)。お話しすると、以前に竹下亘の追悼演説に行かれたことがあるという。関西財界に関心があり、とりわけ関経連の松本正義会長に興味があるとおっしゃっていた。奇特な方がおられるものだと思った。人のことを言えた義理ではない。

議場に入って最初に目についたのは鳩山二郎議員。つづいて長坂康正議員と談笑するのはいま話題の斎藤洋明議員。0時52分ごろ、安倍元総理の遺影をかかげた安倍昭恵氏が入ってきた。カメラマンのフラッシュはたかれたが、議員は上にいることもあり気づいていない様子。直後に岸信夫・前防衛相が自民側の入り口そばの議席最後部裏に車いすをとめた。脇には紺色の小机が置かれ、こうして議席とするのかと妙な関心をしてしまう。右隣にはやはり体調不良の吉野正芳・元復興相も車いすで並ぶ。吉野氏もしばらく車いす生活をしている。

高木啓議員は入場時深々と一礼。鈴木英敬議員にあいさつした小泉進次郎・元環境相がにこやかに議席のあいだを歩く。氏名標を起こすのが心なしかやけっぱちのように映るのは吉川赳議員だ。追悼演説の日であろうが日常どおりで、これでいいとも思う。

閣僚も入ってきた。岸田文雄首相はあの歩き方。寺田稔総務相はこじんまりとした風情。大臣に耳打ちする秘書官のような。

「これより会議を開きます。さる7月4日に逝去されました議員安倍晋三君に対し弔意を表するため、野田佳彦君から発言を求められております。これを許します。野田佳彦君」。細田議長が発する。声が小さい。お歳か、それともべつのことか。

モーニングコートに身を包んだ野田元総理が拍手に迎えられながら演壇に上る。さまざまな論議を呼んだこの追悼演説だが、野党席を含めみな拍手を送っていた。

「あなたは不帰の客となられました」。そうか「あなた」と呼ぶのかと思う。議場は拍手もためらわれる緊張に満ちていた。「初登院の日、国会議事堂の正面玄関には、あなたの周りをとりかこむ、ひときわ大きな人垣ができていたのを鮮明におぼえています。そこにはフラッシュの閃光を浴びながらインタビューに答えるあなたの姿がありました。私にはその輝きがただまぶしくみえるばかりでした」。名門政治家の系譜を背にする安倍元総理と、自衛官の家に生まれ、係累に政治家などいない野田元総理をくっきりと対照させる一言である。

「もっとも鮮烈な印象を残すのは、平成24年11月14日の党首討論でした」。野田元総理にとって、解散を約したあの党首討論をどう思っているんだろうと、気になっていた。「私は議員定数と議員歳費の削減を条件に衆議院の解散期日を明言しました。あなたのすこしおどろいたような表情。その後の丁々発止。それら一瞬一瞬をけっして忘れることができません。それらは、与党と野党第一党の党首同士が、たがいの持てるものすべてを賭けた、火花散らす真剣勝負であったからです」。少々、かっこよすぎる。野田元総理は泉下の安倍元総理をいまもなお「政治家」として遇しようとしているのではないか。「あなたは、いつのときも、手ごわい論敵でした。いや、私にとっては、かたきのような政敵でした」

そんな解散をして、はたして野田元総理は下野に至る。第2次安倍内閣親任式でふたりだけになったシーンを振り返った。「同じ党内での引き継ぎであれば談笑がたえないであろう控え室は、勝者と敗者のふたりだけが同室となれば、シーンと静まりかえって、気まずい沈黙だけが支配します。その重苦しい雰囲気を最初に変えようとしたのは、安倍さんのほうでした。あなたは私のすぐ隣に歩み寄り、『お疲れ様でした』と明るい声で話しかけてこられたのです。『野田さんは安定感がありましたよ』『あの「ねじれ国会」でよくがんばり抜きましたね」『自分は5年で返り咲きました。あなたにも、いずれそういう日がやって来ますよ』温かい言葉を次々と口にしながら、総選挙の敗北に打ちのめされたままの私をひたすらに慰め、励まそうとしてくれるのです」。受け止めによっては勝者の不遜な言葉である。むろん、安倍元総理に野田元総理をいやしめる意図はなかっただろう。それでも野田元総理のほうはそうは感じなかった。「そのときの私には、あなたの優しさを素直に受け止める心の余裕はありませんでした」と率直に認める。

「でも、いまならわかる気がします。安倍さんのあのときの優しさが、どこから注ぎ込まれてきたのかを」。そう言って第1次内閣での失敗に触れ「あなたもまた、絶望に沈む心で、控え室での苦しい待ち時間をすごした経験があったのですね」。内閣総理大臣という職業はどす黒い孤独に覆われる。これは、そんな感慨に満ちたふたりのあいだだけで交わそうとした言葉であっただろう。

当時の選挙で野田元総理は失言していた。「総理大臣たるには胆力が必要だ。途中でお腹が痛くなってはダメだ」。振り返り、深々と頭を下げた。自民党議席に目を移すと、目頭をぬぐっているように映るのは池田佳隆議員か。

上皇陛下の譲位をめぐってふたりで密かに話し合ったエピソードを明らかにした後、声を張り上げて語った。「憲政の神様、尾崎咢堂は、当選同期で長年の盟友であった犬養木堂を5・15事件の凶弾で失いました。失意の中で、自らを鼓舞するかのような天啓を受け、かの名言を残しました。『人生の本舞台は常に将来に向けて在り』。安倍さん。あなたの政治人生の本舞台は、まだまだ、これから先の将来にあったはずではなかったのですか。再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった」

「勝ちっぱなしはないでしょう、安倍さん」

野田元総理の演説には、いつもユーモアと背中合わせになったペーソスが漂う。その真面目があらわれた一節だ。

演説の流れは変わる。「どんなに政治的な立場や考えが違っていても、この時代を生きた日本人の心のなかに、あなたのありし日の存在感は、いま大きな空隙となって、とどまりつづけています」。そしてこうつなぐ。「そのうえで、申し上げたい」

「長く国家の舵取りに力を尽くしたあなたは、歴史の法廷に、永遠に立ち続けなければならないさだめです。安倍晋三とはいったい、何者であったのか。あなたがこの国に遺したものは何だったのか。そうした『問い』だけが、いまだ宙ぶらりんの状態のまま、日本中をこだましています。その『答え』は、長い時間をかけて、遠い未来の歴史の審判に委ねるしかないのかもしれません。そうであったとしても、私はあなたのことを、問いつづけたい。国の宰相としてあなたが遺した事績をたどり、あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も、この議場に集う同僚議員たちとともに、言葉の限りを尽くして、問いつづけたい」

政治家の追悼演説は難しい。同じ立場の議員ならば、ただ賛辞を述べればよい。賛辞を述べることはけっして悪いことではない。儀礼の場だからだ。

安倍元総理への追悼演説は少々違った。自民党内のみっともない混乱があった。野田元総理が演説を引き受けるかどうかをめぐり、極端な政治的感情を持つ野党支持者も騒いだ。

この一節が、野党政治家としての急進的な支持者へのポーズであったとみる向きがある。その一面はあるだろう。しかし、これが野田氏の遁辞でしかないとみれば、野党政治家としての野田元総理をおとしめるものだ。野田元総理は一貫して非自民の立場で歩んできた政治家だった。自民党政治に対する“敵”である。この一節は、野党政治家としての矜持をもった“追及”だった。

そして、こうつづいた。「政治家の握るマイクには、人々の暮らしや命がかかっています。暴力にひるまず、臆さず、街頭に立つ勇気を持ち続けようではありませんか。民主主義の基である、自由な言論を守り抜いていこうではありませんか。真摯な言葉で、建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱なものへと育てあげていこうではありませんか。こうした誓いこそが、マイクを握りながら、不意の凶弾に斃れた故人へ私たち国会議員が捧げられる、何よりの追悼の誠である。私はそう信じます」。万雷の拍手のなか、野田元総理が演壇を去る。

退席する昭恵氏に自民議員がみな一礼。演説が終わると、いつもどおりの国会だった。議事進行係の佐々木紀議員が「ギチョーーー」。「ようし!」。やたらと声がそろっている。小さな声の細田議長が裁判官弾劾裁判所などの人事をめぐり確認を進める。「裁判訴追委員に後藤茂之君」。あれ、後藤氏って新・経済再生担当相に内定しているのに。議場がざわめく。

岸田首相の発言に入る。山際大志郎経済再生担当相の辞任をめぐる陳謝だ。閣僚の辞任をめぐり、総理が時間をもうけて国会で発言するなど、はじめてみる景色である。野党議席からは「これで終わりじゃない」などとさかんにヤジが飛ぶ。立憲・逢坂誠二代表代行の激しい追及にも自民議席からヤジはない。つづく維新・金村龍那議員の発言に立民議席米山隆一議員が両手を口元に添えてヤジ。声が通っていない。国民・浅野哲議員、共産・塩川鉄也議員の発言がつづく。岸田首相の答弁に自民党議席からの拍手はまばらだった。

「このさい、暫時休憩いたします」。この日もっとも大きな細田議長の声だった。

その後の審議を途中までみて退席した後、野田元総理の演説を反芻した。

普通の追悼演説離れした、わずかに挑発をにじませたものだった。先述したとおり、野党政治家としての言葉だったのだろう。そして、ただの野党政治家の発言でもない、とも思う。政権交代のある景色になって、与党と野党、政治家とまた政治家の距離感はいっそうさぐりがたくなった。対抗意識はたやすく憎悪に転じる。憎悪はあってはならないわけではないが、みせられる側はいい気持ちではない。なにより、憎悪だけで与党と野党は付き合えない。

野田元総理にとって、あの演説には野党としての決意をみせる意図はあっただろう。もう一方で、直前の混乱をみるにつけ、政権交代ある景色にあって、対抗与党(対抗野党)への屈服や卑屈に堕さないながら品位を保つ、ひとつの語りかけ方を示していたようにも映る。それは、人間野田佳彦にとっては、政権交代によって味わった栄光と挫折に裏打ちされたものかもしれない。

ぶつけられた言葉に安倍元総理はなんと応えていただろうか。厳しく論駁するのも、“キレる”のも、政治家の花道である。戦闘的な政治家にとって、もっとも幸せな送別だったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

石破茂はディーゼルの香りに酔う(石破・前原誠司鉄道トーク傍聴記)

「国際鉄道模型コンベンション」で日本信号ブースを訪ねた石破茂氏(21日、東京ビッグサイト


21日に
東京ビッグサイトで行われた「国際鉄道模型コンベンション」で「令和鉄道放談」と称した企画が行われた。だれあろう、政界鉄道マニアの両雄、石破茂氏と前原誠司氏が鉄道の話に興じる趣向だ。

 

特設会場には鉄道ファンがずらり。鉄道関連誌編集長の司会は開口一番「われわれの仲間として『石破さん』『前原さん』と呼びたい」という。「生臭い話を抜きに」とも話していたが、とりこし苦労ではないかもしれない。ともに防衛通でしばしば「タカ派」とも評されるふたりだ。話すことじたい、時期が時期なら憶測を呼ぶだろう(みたところ、政治部記者らしき姿はなかったが)。

 

「石破さんは特急出雲に1000回乗った」「前原さんは蒸気機関車を形式ではなく番号で語る」と紹介され、最初に話題を振られたのは石破氏だった。「石破さんの地元の特急『やくも』が国鉄色に塗り替わった」。「これはうちの選挙区ではないので・・・」。石破氏がおなじみの口調で返すと会場の笑いを誘った。「こないだね、因美線に何十年かぶりに気動車急行『砂丘』というのが走ったんです。国鉄時代の色って本当にいいね。ぜひみんな塗り替えてください。お願いします」。つづく前原氏も子どものころの思い出話を語り「やっぱり国鉄色っていいですね。来週、京都鉄道博物館に行くんですが、EF66の27、ニーナってご存じと思いますが、みてきます!」と宣言。会場から拍手を浴びる。

 

話題は特急やくもの新型車両導入に移った。「新しい車両って素敵なんですけど、なんだかわくわくしない。新幹線でも0系がよかった、寝台車でも20系がいちばん素敵だったんですけど、歳なんですかね」と石破氏。 前原氏は自身の撮影した鉄道写真の解説に入った。春の連休で磐越西線を訪ねたという氏が「大好きな場所」として挙げたのは三川(新潟県阿賀町)。「ここの四季を撮るのが本当に好き。早春の真白い雪、桜の季節若葉の季節もいい。三川の発車の汽笛が山のなかをこだまして夕刻出てゆく。すばらしい光景だと思います」としみじみ。 石破氏は特急「出雲」の思い出にひたる。身を乗り出して写真に見入りながら「このDD54はディーゼルなのにカッコよかったですね。DD54の引く出雲って本当素敵でした」。さらに急行「大社」に言及し「乗り通しました。非常に不思議なルートを通る急行でした。大学生で長い時間乗りたいと思った。しょっちゅう方向が変わり、ここはどこの世界(という感じ)」と振り返る。

 

石破氏は、司会からディーゼルの排気の臭いについて問われた。「ディーゼルが好きな人ってあのディーゼルの香りがなんともいえないのね。国鉄時代の車両ってなんともいえない不思議な香りがするじゃないですか。あれがいまのJRの列車のはまったくない。悲しいようなさみしいような」。実感の伝わる答えである。

 

話題は前原氏がはじめて撮った写真のことに。「小学校6年生の春休み、日豊線南宮崎電化が4月24日だったと思いますが、その直前。どうしても九州のSLに会いたいと。とくに私は門デフのC55が好き。親父が勤めを休んで4泊5日で京都から日南に乗って、小倉で降りて。鹿児島線から折尾、折尾から若松へ。『SLダイヤ情報』で調べたら臨時の貨物列車とすれ違うと。複線なんですね。待ち構えていたらD60の61号機。これはいまも保存されています。大好きな機関車です」。話はつづく。「最後のC61が牽くと。18号機が残ってまして。それが牽いてくると待っていたら細いボイラーでC61じゃないなと、なおかつプレートが赤かった。みなさんご存じのとおり、C57の117号機は最後のお召し列車を牽いたんです。C61ではなかったが、C57の117号機が私のいちばん好きなC57になった。この後の発車シーンも撮ってます」

 

会場スクリーンに国土交通大臣時代の前原氏が山梨県内で機関車を撮影する写真が映し出される。「D51はなかなかきれいに撮れない。気に入った写真はありません。本当に難しい」。両親が境港出身の前原氏は、子どものころは里帰りは急行「白兎」や夜行鈍行「山陰」を使ったという。鳥取出身の石破氏へ「米子機関区は私もなじみのある機関区」と話す。

 

前原氏の話の流れから、石破氏はサンライズ出雲が「私の選挙区は電化されていないので来てくれない」とぼやく。「DD51が引っぱるなら鳥取へ来ないかと言ったら『2階建てで車高が高い。明治のトンネルは通れない』とにべもなく言われた。乗ろうと思えば乗れないことはないが、直通じゃないって悲しいですね」。しんみりしたかと思えば、直後に三段式の寝台車の写真に「20系」と紹介した司会へ「これは14系」とぴしゃり。怖かった。

 

石破氏は寝台車に深い思い入れがあるようだ。「三段式のいちばん上は安い。天井のカーブがある。14系が電動でガーッと上がるようになったんですよ。20系までは寝台をつくる係がいましたからね。名人芸であっというまに組んでくれた。電動で動くようになって、すげえなと思ったがつまんねえのとと思いました」。14系になって乗り心地が悪くなったのではないかと問われた石破氏は「私は乗り心地を気にしたことがなく、乗れたら幸せ。そんなことはどうでもいいです」と力を込める。

 

前原氏も寝台車体験を語った。「京都から新幹線を逃すと急行「銀河」か出雲になる。出雲は東京につく時間が早い。ゆっくり乗るなら銀河。昔は東京温泉という銭湯があったんです。降りたら東京温泉へ行くと。そうすると野中広務先生がおられて、裸でごあいさつすることもありました。議員の方もけっこう利用されていたと思います」 。さらに前原氏はトワイライトエクスプレスに2回乗った話などをしながら「石破さんは北海道へ講演するときは飛行機ではなくて『北斗星』や『カシオペア』にしろというたぐいの方」と評す。「『だいせん』の話をすると石破さんに負ける。私が自信を持って言ったことをくつがえされたこともあったんです。政治の話もするんですけど、飲みに行ったら鉄道の話もして、だいせんのことは石破さんに聞かれたほうがいいです」と石破さんを指した。ふたりの関係性が伝わるではないか。

 

指名された石破氏と急行『だいせん』のつながりはこうだ。「最終の飛行機に乗れる時間に地元の会合は終わらない。出雲が出る時間にも、夜行バスの時間にも終わらない。そうすると急行『だいせん』にしか乗れない。100回は乗ったね」。さらに熱は増す。「北海道の選挙応援や講演はしんどいんです。時間かかるから。ほれほれと北斗星の切符をひらひらされると『行きます!』」「北斗星に乗ったことは孫の代に語りたい、ぜひ復活させてください」と訴えた。

 

司会はふたりへクルーズトレインについて問いかけた。「車体のなかを作る事業者は私の支援者」という前原氏は「いろんな価値を発掘して鉄道需要につなげる発想は素晴らしい」と評価する。石破氏も「ななつ星に2回乗った。夢のような時間だった」とべたぼめ。「感動これにまさるものはない。いかに危機的な夫婦でも救われる。すごいらしいよ」と軽い調子でつなぐと「付加価値って『この金を出してもほしい』の総和。そういうもんじゃないですかね」と評した。

 

会場のスクリーンには寝台車で見ず知らずの客が乗り合わせた写真が映し出された。「これはいいですよね」と感に堪えない様子の石破氏。「夜行列車の素敵さは半分地元というところ」といい、鳥取から東京へ出てホームシックになった高校時代を振り返った。しばしば東京駅13番線を訪れたが「(降車客が)地元の言葉をしゃべっている。東京にいながら地元の雰囲気を味わえる」と感じていたという。「夜行特急の寝台車に乗った人がけんかしているのをみた覚えがない。妙に仲良くなる不思議な空間」と懐かしんだ。

 

石破氏は乗客としても寝台車を愛している。「通るのは山間部だから電話は圏外。電話が通じないってこんなにうれしいことはない。個室で誰も来ない、電話がかからない、映画はみられる、酒は飲める。あそこでリセットしてさあがんばるかと。あの時間がなかったら議員はつづけられなかった」。 食堂車の思い出もあるという。「食堂車で農協や建設業協会が宴会をやっている。やたらめったら飲む。完全にふらふら。目が覚めたら財布がないことを2回やられました」

 

前原氏も食堂車には忘れがたい記憶を持つ。松下政経塾に合格した帰りの新幹線で前原氏は不安に襲われたという。「違う世界へ進むことでどんよりした気分になった。食堂車でビールを飲みながら窓をみて、自分自身を奮い立たせた」

 

駅弁が象徴するように、鉄道旅行は食と深く結びついている。石破氏は「コンビニ弁当で一日が終わる。すごく悲しいのね。これから先、農業、漁業の時代というからには、そこ(旅行先)のおいしい弁当があると、そこのお米を食べてみたいなとか気になるはず。世の中なんとなく味気なくなっている。感動が凝縮されているのが夜行列車。どうしたら喜んでもらえるかという方向に戻ってほしい」と訴えた。

 

トークライブも終わりにさしかかった。司会が「鉄道150年でも元気がない」と切り込むと、前原氏は「悲しいことですが人口が減ってゆく。人口が増えているときでも高速道路や空港もあれもこれもと作りすぎた、そのなかにあって人口が減少。鉄道基金の運用益も出ない。社会状況の変化で鉄道をどうやって残すかが政策の問題」と指摘。「一個人として鉄道を残してほしいと思いますが、これからは地域の方々との話し合いをしてゆくなかで、残すなら地域でどれだけサポートされるか、国がどういった支援をするか、残さないならどういった代替案があるか。じっくり数年かけて話し合って地域の方が納得するのが大事なことだと思う」「鉄道として全部残すのはおそらく無理だと思います。いまは国鉄末期よりはるかにお金がかかっている。鉄道が好きというだけで残せという議論にはならない。丁寧に話し合うことが大事と思う」と言い切った。

 

石破氏の発言はやや色合いは異なる。「儲からないから道路やめましょうという話を聞いたことがないんです。同じ公共交通機関でもなんでこんなに発想が違うのと」「人口が減る中で鉄道をどうやって使ってゆくか。『乗って残そう』で残った鉄道なんてひとつもない。どうやって乗りたくなる鉄道、行きたくなる街をつくるかという議論をしないままに『赤字だからやめちゃえ』という発想はすごく無責任と思う」と主張。「『国や街、鉄道会社なんとかせい』ではできない。鉄道って歩くことを求める。鉄道単体で考えず、日本の中で鉄道をどうしようという話をちゃんとしたい」と結んだ。

 

最後にふたりは鉄道ファンへのメッセージでトークをしめくくった。先月、コロナ感染した前原氏は、隔離期間中に鉄道模型に興じたという。「HOゲージを持っているんです。5年間走らせてなかったのに年間2、3両ずつ買っていた。天賞堂に行ったり。あんな危険なことはないですね。買わないぞと心に決めてもなにか買ってしまう」。半日かけて議員宿舎の自室を掃除し、レールを敷いた前原氏は「鉄道は乗るのも模型も楽しい。趣味があるのはすばらしいことだと思います」と話す。「われわれは政治家なので」と「インバウンド、国内の方に鉄道や地域のすばらしさを再発掘してもらい、地域経済につなげる。そういったことに取り組ませてもらいたい」と意気込みを語って締めた。

 

前原氏が鉄道模型なら、石破氏は「お盆に2日間夏休みがあり『六角精児の呑み鉄本線・日本旅』をみていました。あれ面白くない?めちゃくちゃ面白いよね」。視聴して「それぞれの地域の人、産物を味わうのが鉄道じゃないか」と感じたといい、「高齢化や人口減少、一極集中解消など国の目標はいっぱいある、その解決に鉄道をどう使えるか」というのがカギとみる。「鉄道好きどうし仲が悪い人はみたことがない。飲みながらでいいですよ、鉄道を使ってどうやって新しい日本をつくろうかという話をしましょう」

 

熱いトークライブだった。ときに、政治家が政治以外のものを語る姿はぎこちないものだ。相当の趣味人と見受けるふたりもまた、政策の領域に入った話のほうが熱がこもっていた気がしたのは、気のせいだったのだろうか。

【資料】老人党(関口安弘氏)の設立主旨、理念

関口安弘氏は2010年参院選東京選挙区に「姫治けんじ」名で立候補して以来、参院選東京都知事選、江戸川区長選に出馬してきた候補だ。選挙によって名前を使い分けるなどのわからないところもあるが、直接お目にかかれば温厚で丁寧に人と接する紳士である。

政策はさまざまだが、憲法改正への思いはつよい。氏は不定期に地元・江戸川区の公民館などで自らの主張を訴える場をもうけているが、そこでも憲法に関する話をするのがつねだ。よく参加者に意見を尋ね、そのたびに私の答えは「現実的に難しい」と評される。分別がないということなのだろう。

ある種の選挙候補にみられることだが、氏はしばしば自らの政治団体の名称を替える。最初の選挙では「平和党核兵器廃絶平和運動」を名乗っていたが、その後は「地球平和党」、「民主主義と自由を守る連合」と転じた(詳しくは関口氏と親しいマーク・ウィテカーさん[@tefsk]のツイートをご覧いただきたい)。地球平和党時代にはホームページのなかに「財政再建党」なるもののページもあった。

2020年東京都知事選に無所属で出馬された折、投開票前日の演説に足を運ぶと「老人党(シルバークラブ)」という団体の「設立主旨」や「活動理念」などをみせていただいた。氏がご病気をされたあとに参加したという、葛西臨海公園のごみ拾いのボランティアと組んでいるらしい。かつての地球平和党について訊くと「現実的ではなかった」と評価されていた。

老人党、といってなだいなだや「41歳寿命説」の西丸震哉らが浮かぶ人はあろうが、どうも関口老人党の資料はネット上に乏しいようだ。氏の温和な人柄を思い起こしつつ、写した画像を紹介したい。

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老人党について説明する関口安弘氏(2020年7月4日、JR新宿駅南口)

テレビコメンテーター 京極純一

学識ある知人から、NHK「週刊ヤング情報」という番組の存在を知らされたのが23日のことだ。いや、日をまたいで酔いどれて話をしていたから、24日なのかもしれない。まあ、どうでもいい。知人の紹介する内容にひかれて川口のNHKアーカイブまで足を運び、ただ1回分が公開されているその番組をみた。

Wikipediaによると、「週刊ヤング情報」は1991年4月から翌年3月まで、NHK総合で土曜日23時半から翌日0時15分の時間に放送、若者を対象に時事問題を解説するというテイストの番組だったらしい。

司会は桂三枝(現・桂文枝)、これはなるほどと思う。アシスタント役とみられるのは羽野晶紀(羽野の出演は91年10月からで、私がみた回は別の女性出演者だった)、コメンテーターとして陣取るのが秋元康。さらにもうひとりのコメンテーターがいた。秋元の向かって左隣、4人の端にたたずんでいたのは、誰あろう京極純一だった。

秋元康京極純一の並び、桂三枝と言葉をかわす京極純一という画は異質だ。しかし、より目立つのが京極のコメントそのものだ。くだらぬ論評をまじえず、一部の発言をそのまま紹介したい。

なお、この回の放送日は不明。内容から91年4月の放送とは推測できる。

ゴルバチョフ訪日、首脳会談について】
三枝「しかし京極先生、まあゴルバチョフさんが残してくれたものは一体なんだったんでしょうかね」
京極「やっぱり指切りげんまん(※)をしてですね、さいならさいならまたね、という。その『またね』というところに味があるんじゃないでしょうか」
三枝「はぁー。結局進んだんでしょうか。進んでないんでしょうかね」
京極「まあこれから、あのー、ほどき方、ほどけ方しだいだと思いますねぇ」
三枝「さすがしたたかな政治家というイメージを我々」
京極「ゴルバチョフ大統領もしたたかでしょうが、こちら側も立派だったんじゃないでしょうかねぇ」
三枝「評価していいですかね」
京極「はい(笑顔で)やっぱり指切りげんまんさいならさいならと思いますけど」
三枝「そうでございますね」
(※91年4月18日、当時の海部俊樹総理とゴルバチョフ大統領は日ソ共同声明にあたり、指切りげんまんをするパフォーマンスをみせた)

自民党幹事長について】
三枝「これはエリート、首相への道と」
京極「大体は他党との交渉という意味では外務大臣でしょうし、党内の運用という意味なら大蔵大臣もみな兼ねてるわけですね。ですからまあ、会社の社長(※)というのはそのとおりだと思いますですよ。ぜひなりたい」
三枝「問われる能力といえば集金能力と」
京極「まあ集金もですが、やはり人心収攬能力ってのが大きいでしょうね」
(略)
三枝「小渕幹事長はいかがでございますか」
京極「立派だと思いますよ」
三枝「大丈夫なんですかね」
京極「それは(笑い)私が太鼓判を押す問題ではないと思いますけど」
(※直前のVTRでは自民党総裁の職責を「会社の会長」、自民党幹事長は「会社の社長」になぞらえて説明していた)

アルバニア情勢について】
三枝「先生、ここが貧富の差がほとんどないと」
京極「皆さんが貧乏だという意味で貧富の差がほとんどないと。日本なんかは皆さん金持ちで割に貧富の差がないと。まあ差がないだけですといろいろありますね。やはり豊かな差のない国、平等な国と、貧乏で平等の国と」
三枝「このたび大統領を決めて、やっていけるんですかね、この先」
京極「まあ皆さんががんばらなきゃだめだと思いますですねぇ」

【日本の外国人について】
三枝「これだけ外国人増えたら、われわれは外国人にどう接したらいいんでしょうか」
京極「普通に接していればいいんじゃないでしょうか。まあ普通にっていうか、肩肘張らないで、肩から力を抜いて」

桂三枝は司会をやりづらそうであった。

「吉田博美」とは何者だったのか

10月26日、自民党吉田博美・前参院幹事長が死去した。夏に体調不良で引退してから間もなくのことだっただけに驚いた。

吉田氏につけられる冠は「参院のドン」をおいてない。政治は“ドン”がいないとピリリとしないが、参院自民党というブラックボックスめいた空間を束ねる吉田氏はまさに一級の役者であった。

とはいっても、吉田氏が実力者として耳目を集めるようになったのは、実は最近のことだ。テロ等準備罪が俎上にのぼった2017年国会の策士ぶりが大きなきっかけだった。かつて竹下登は「歌手1年、総理2年の使い捨て」と言ってみせたが、寿命2年のドンとは奇妙な響きである。一種異様であり、それが後世に吉田氏を見るとき、深い霧のようになるのではないか、と思われるのだ。

後述する2017年国会における“暗躍”まで、私の吉田氏に対する印象は大したものはない。国交族。元金丸信秘書の根回し政治家。跳ねっ返りの山本一太氏までもブログで好意的に紹介していて人望は厚い。そんなものでしかなかった。それだけに、その国会中に1本の新聞記事を読んだときの驚きは大きかった。

テロ等準備罪を新設する組織的犯罪処罰法改正案が審議された2017年国会は始終混乱がつきまとった。答弁に立った金田勝年法相(当時)は答弁に立ち往生し、「私の頭脳が対応できない」という迷言まで飛び出す始末。衆院法務委員会で怒号に包まれた採決が行われ、本会議を通過すると、主戦場は参院に移った。誰もが会期延長を予想するなか、夏の東京都議選を前にして与党がとった判断は「中間報告」を通して委員会採決を省略し、いきなり本会議で採決するという奇策だった。

産経新聞2017年6月16日付朝刊2面に掲載された「22時間ちぐはぐ国会」という記事でその内幕が報じられた。そこで描かれたのは吉田氏の寝業師ぶりだ。二階俊博幹事長や連立を組む公明党から一任を取り付けた吉田氏は、松山政司国対委員長のみに作戦を伝え、電光石火の採決に踏み切った。さらには成立するや、加計学園問題の追及に躍起の野党に予算委員会集中審議の開催を約した。同紙は「野党にも花を持たせると同時に、中間報告を『加計隠し』とする狙いを封じ込める狙いだった」と解説している。狙いの適否は別にしても、審議を会期内に収め、政局に吉田氏の手腕は冴えわたった。私がこの記事で吉田氏の力量を知ってから、吉田氏が「参院の新実力者」としてさまざまな場で名前を見せるまではそう長くなかった。吉田氏の動きを報じることが多かった同紙が、「参院自民新ドン誕生で復権か」との記事で吉田氏の「参院自民を実質的に率いる」姿を報じたのが、同年9月6日付朝刊。やはり、このころに吉田氏が実力者として認識されるようになったということなのだろう。

参院のドン」としての吉田氏。2年間になにをしてきたのだろうか。

参院のドン」といっても、さまざまなタイプがいる。まず浮かぶのは、池田・佐藤政権期に権勢を誇った”天皇”こと重宗雄三。派閥化の波が押し寄せる前の参院自民党を掌握し、佐藤総理さえも立ち入れぬほどの聖域をつくりあげた。重宗が力を揮ったのは、保守合同が成り、“自民党政権”が定着化を始めた時代だ。第一党が権力を使うことに成熟し、参院の位置づけを探るなかでアッパーハウスの実力者としてふるまった重宗は、後世の「参院のドン」と呼ばれる人種のロールモデルともいえる。

つづいて浮かぶのは1990年代後半に活躍した村上正邦氏だ。重宗が“天皇”ならば、村上氏に週刊文春が与えた異名は「参議院の尊師」。剛腕で参院の存在感を向上させた村上氏と吉田氏には重なる面がある。いずれも足元が不安定だったということだ。生長の家の後押しで政界に出た村上氏は、1980年代に同教団がそれまでの政治活動から撤退すると、KSDの支援を受けるようになった。そうしてのちにKSD事件で失脚に追い込まれたのは周知のとおり。吉田氏は地盤の長野県選挙区が選挙区改正で2016年参院選をもって2人区から1人区となり、強固な後援会組織を誇る羽田雄一郎氏との一騎打ちを迫られて去就に悩んだ。“ドン”といえども選挙の前には人の子ということか。

輿石東氏も忘れてはならない。政局にたけた人材の少なかった旧民主党にあって、教職員組合で培った組織運営能力、調整能力を発揮して参院を束ねた。現職中は「左翼政治家」と呼ばれることがしばしばだった輿石氏だったが、その本質は「政局政治家」というべきだろう。

そのような“ドン”を数えるうえで抜かしてはならないのが、2000年代に権力の絶頂を極めた青木幹雄氏である。青木氏は参院を掌握したのみならず、自派の平成研を“抵抗勢力”から小泉政権の支持基盤のひとつに脱皮させ、政権の安定に貢献した。青木氏と小泉氏はつねに打算をはらんだ関係にあり、けっして“蜜月”とはいいがたい。徹底した政局政治家ぶりと影響は、歴史のなかで別格だったと評価されるべきだろう。

吉田氏は青木氏の愛弟子として地歩を固めた。金丸信、中島衛という田中派政治家の秘書育ちの吉田氏は、長野県議を経て1998年に初当選してから、議運・国対、あるいは田中派からの伝統ともいうべき国土交通行政を仕事の場とした。実力者として扱われた間、吉田氏は党参院幹事長を務めていたが、それまでに党参院国対委員長、幹事長代理、参院国土交通委員長などを歴任した。青木氏に引き上げられ、参院で強い影響力を持つ所属派閥・平成研の威光を背にキャリアに重ねたわけだが、没後に多くの議員が述懐したような独特の面倒見のよさをはじめ、吉田氏自身が持った才覚が台頭のテコになったことは言うまでもない。

吉田氏が「参院のドン」として注目を集めるようになったとき、同時に目を向けられたのが後見人格の青木氏の存在である。毎週水曜日に砂防会館の青木氏の事務所(吉田氏の引退後には、吉田氏自身の事務所にもなった)で昼食をとっていたというエピソードをはじめ、吉田氏は青木氏にコントロールされているのではないか、という疑念が広がった。ただの政治家でもなければ、ただのドンでもない。吉田氏は派閥の枷をはめられた派閥政治家だったのである。

派閥政治家としての吉田氏の大きな足跡となったのは、額賀福志郎会長から竹下亘会長への交代劇だった。早くから「総理総裁候補」と目されてきた額賀氏だが、人望に欠け、実際に自民党総裁選に出馬したことは一度もない。総裁になれぬ派閥領袖からは人心が離れる。お公家派閥といわれる宏池会でさえ、大平正芳会長誕生の前段にあったのは佐藤政権への協力が過ぎ、足元をみられていた前尾繁三郎会長へのクーデターだった。「ムラから総理総裁を出す」という気持ちが吉田氏をしてそうさせたのか。吉田氏もまた、額賀体制の打倒に動く。2018年初頭から額賀氏に退陣を迫り、参院の所属議員をまとめて派閥総会に欠席させるなどした。

平成研には参院がまとまって領袖を決めた歴史がある。前身の経世会時代にさかのぼって1992年、金丸信東京佐川急便事件で政界を逐われると、派閥の跡目を竹下登が推す小渕恵三小沢一郎氏で争った。衆院の多数を小沢氏が握っていたのに対し、竹下側は「中立」を示しし、多数派工作の的にもなっていなかった参院を掌握した。後継会長を決める派の最高幹部会で参院経世会会長の坂野重信は小渕支持を表明する。結局、小沢氏は領袖の座を逃し、最後は派閥を割ることになった。大勢が決まり、竹下・金丸と“手打ち”の会談に臨んだ小沢氏は竹下を面罵。終了後記者団を前に「もう竹下さんと会うことはない」とくやしがった(田崎史郎竹下派死闘の七十日』)。

このとき、竹下の意を体して参院の取りまとめや小沢氏へのメッセンジャーとして奔走していたのが青木氏だった。参院平成研には、そんな権力闘争の残り香が濃く残る。吉田氏が火をつけた政局は、退陣要求から約3ヶ月後、額賀氏が会長を退任することで決着した。

吉田氏がそのような行動に踏み切ったのは、同年の総裁選をにらんだものといわれる。実際、総裁選で吉田氏らは安倍総理と対峙する石破茂氏を支持した。一方で、当面の政治状況のなかにあっては、本心としては安倍政権の維持をよしとしていたようでもある。没後、吉田氏を取材していた産経新聞の田中一世記者が「一度親(青木氏)を裏切ったら一生、人を裏切る人間になってしまう」という板挟みに悩む肉声を明らかにしている(https://www.sankei.com/column/news/191102/clm1911020004-n1.html)。いかな参院のドンといえども、「青木幹雄の側近」であり、平成研の議員であった。“中間管理職”とでもいうべきか。

以前に、「吉田博美って同時代的には安定装置として存在感のある政治家だが、冷静に考えるとなにかをつくったり、あるいは壊したりしていない分、後世からみればわけのわからない政治家として映りそう」とツイートしたことがある。吉田氏はあるべきだった「なにか」を青木氏に封じられ、さまざまなものを形にする前にこの世を去った。安倍支持の意図も、石破支持の落着点も、形にする前に。自派の総裁候補である茂木敏充氏や加藤勝信氏への政権禅譲を望んでいたのか、あるいは個人的なシンパシーで安倍総理を支持していたのか(吉田氏は総理のお膝元、山口県出身である)、いまではわからない。

吉田氏は一貫して参院平成研の政治家として地歩を固め、参院平成研の政治家として力を揮った。あくまで氏に付されるべき冠は、誕生に力を尽くした“竹下派”ではなく、田中派竹下派の系譜を背にして、参院が権力闘争の先陣に立って生まれた“平成研”であった。平成研ブランドの遺産管理人である青木氏のもとにいる以上、そうならざるを得なかったのである。そんな“平成研”の政治家としての吉田氏の道のりは一貫性を欠き、不明瞭である。それが、後世に吉田氏をみるとき、理解を阻むように思われる。

もしも、ということを考えたい。もしも吉田氏が青木氏を越えて生きながらえたとき、氏がまとうのは“竹下派”、あるいはさらなる新領袖の派閥の衣だったはずだ。そのとき、卓越した政局政治家の眼前に広がる光景はなんだったのだろうか。

衆議院本会議傍聴(2019年10月7日)

たまたま休みにあたったこともあり、衆院の代表質問に出かけた。2年ぶりになる。

11時ごろに国会議事堂前駅についたので入れるかなと心配したが、早いほうだった。とりこし苦労だった。本会議は14時から始まるというので、赤坂で昼食をとることにした。

とりあえずTBSを通りすぎ、店が並ぶあたりについたが何を食べようか浮かばない。赤坂・・・細田博之の家・・・以前に細田NHK政治マガジンで紹介していたイタリアン(https://www.nhk.or.jp/politics/salameshi/12233.html)に行こうか。地図アプリでさがすと自分の立っていた場所からわずか50メートルの場所だ。

「ピッツェリア・ギタロー」はにぎわっていたが、運よくすぐに座ることができた。細田が注文していた半熟卵とベーコンのピザを選ぶ。ピザだけで足りるかしら・・・と心配していたが、出てきたものはかなり大きい。先述の記事の画像をみると、細田はこれにパスタを加えているようで大食いだと思う。ピザが薄いためか行儀が悪いせいか、美しい食べ方はできなかった。カジュアルないい店で、また行こうと思った。

歩いて衆院の面会者受付所に戻ると、衛視が本会議の開会が遅れていることを知らせていた。本会議を待たされるというのは、国会傍聴でよくある。あせってもなにも動かないこの感覚を久々に味わう。

結局1時間ほど待たされ、本会議が始まった。最初に議場入りしたのは梶山弘志元地方創生相だった気もするが、違うかもしれない。赤沢亮正議員の蛍光色としかいいようがない黄緑色のネクタイがちらつく。先の内閣改造で起用された西村明宏官房副長官議席の氏名標を立てると、心なしかうれしそうに雛壇へ歩いた。林幹雄元経産相は笑顔で傍聴席に手を振り、渡嘉敷奈緒美議員は第3次小泉改造内閣組閣時の猪口邦子少子化相ばりに青い服装をまとう。ふと議席の配置を眺めると、演壇正面か3列目の議席は右端が石崎徹議員、ふたつおいて武井俊輔議員というお騒がせな並びだと気がついた。議場左側に目を移すと、日本維新の会・遠藤敬国対委員長公明党遠山清彦議員の議席に歩き、なにかを話していた。

大島理森議長が議場に入ると、国民投票法改正をめぐる発言のかどで野党議席からヤジが飛んだ。与党議席からは「ヤジるな!」と声。

最初の登壇者は立憲民主党枝野幸男代表。冒頭から大島議長にくぎを刺すと、与党議席からはヤジが飛ぶ。公明党議席では江田康幸議員が猛然と扇子をあおいでいる。暑いのか?

菅原一秀経産相の過去の発言を問う枝野代表。「私への質問で原発ゼロを発言された」と指摘すると野党議席から「オーッ」と合いの手。菅原経産相は首を左右にかたむける。雛壇では、枝野のほうを見ようとする北村誠吾地方創生相。さらに下をみると丸山穂高議員がニヤニヤしながら演壇を眺めている。

枝野代表は企業の内部留保や金融所得課税に話を移した。パチ・・・パチ・・・。えらく調子の外れた拍手が聞こえてきた。共産党議席志位和夫委員長がひとり拍手をしていたのだ。ここまでタイミングが違うと、拍手も一種のメッセージである。二党の“距離感”をうかがわせて面白い。そのあとにも志位委員長は“拍手”をしていた。雛壇では衛藤晟一沖北相が無限に書類に線を引いていた。線を引く意味あるのか。

下をみると山下貴司前法相が議席を立って誰かをさがしていた。閣僚を離れてすっかり“その他大勢”の風情だ。山際大志郎議員と言葉を交わしながらものすごい笑顔(ものすごい笑顔としか形容しようがない)を浮かべる石原宏高議員を脇に質問はゆうちょ問題に。立民議席から返り咲いたばかりの森山浩行議員が激しいヤジを飛ばす。この本会議では、森山議員のヤジが目立ち、はじめてそのヤジ将軍ぶりを知った。議場を出たのは維新・足立康史議員。扉では議場へ一礼。氏なりの国会への敬意、か。公明党議席では一心不乱に中野洋昌議員が本を読んでいる。

枝野代表があいちトリエンナーレ問題に言及するとヤジが激しくなったのは、ある種の与党議員にとりなにが台風の目なのかをうかがわせる。NHKのゆうちょ報道問題とからめて報道、表現の自由の意義を強調する枝野代表。「最大与党の皆さんも党名に掲げる『自由』と『民主』を真に大切であると思うならば、この危機感を共有できるはず」とどうにも冴えない皮肉。

安倍総理が答弁を始めた。枝野代表は報道の自由について言及していたが、「安倍政権への連日の報道をみてもわかる通り・・・」という答弁をする総理。自民党議席前方の杉田水脈議員らが拍手を送る。「報道の自由表現の自由は尊重されるべきことは言うまでもなく、憲法に基づいてしっかりと保障されていることは、『立憲』を党名に掲げる枝野議員ならばご理解いただけるものと思う」といつもどおりの切り返し。合間に答弁が進むうち、甲高い声のヤジが聞こえてきた。自席から枝野代表自身がヤジっているようだ。

つづいての登壇者は自民党二階派の番頭格、林幹雄元経産相共産党議席から志位委員長と穀田恵二議員が所用か退席する。冒頭から台風15号に触れ、細かに被害を説明する林氏に「くるぞ・・・」という議場の空気。通信障害をめぐっては「強靭な通信網整備が急務」、さらに「東京五輪を見据えたとき、公共交通機関の強靭化は喫緊の課題」という言葉が飛び出した。合間には「武田防災相は就任翌日に千葉県の被災現場を視察した」と自派閣僚のアピールも忘れない。そうしてたたみかけるように、「全国1741の自治体のうち、わずか115市区町村でしか策定されていない国土強靭化地域計画を早急に策定する必要がある。地方創生と国土強靭化を調和させることも効果的です」との大見得。国土強靭化を唱道する二階派ならではの芸術的な技倆である。議場をみると、すっかり髪が真っ白になった務台俊介議員。林氏が防災の重要性を訴えるなかでの登場は皮肉なタイミングである。

自民党公明党が連立を組んで20年を迎えたいま、この道のりは間違っていなかったことを心から実感する」としめくくった林氏。興味深い言葉である。公明党議席では相変わらず中野議員が読書にふけっている。

閣僚として初めて答弁に立ったのか?西村康稔経済再生担当相に自民党議席から「よーし!」とかけ声。つづいて小泉環境相が答弁に立つと、ひときわフラッシュがたかれた。小泉環境相にも「よーし!」。心なしか西村大臣より大きい気が・・・。

「ギチョーーーーー」。最後に「呼び出し」をする議事進行係は福田達夫議員。やや長いが、いい声だと思った。「本日はこれにて散会されることを望みまーーーす」。呼び出しを生で聞くと、久しぶりの国会傍聴も悪くない。

追想「宮崎哲弥に訊け!」

TBSラジオに「BATTLE TALK RADIO アクセス」という番組があったことは、関わった当人たちですら忘れているかもしれない。1998年に始まり、2010年に終了した。リスナーが電話でパーソナリティに意見を開陳するという微温的な番組だったが、1年に一遍、きまってアシスタント役の渡辺真理が視聴者に嫌味を言われるスリリングなシーンもないことはなかった。  

 

そのパーソナリティのひとりに名を連ねていたのが宮崎哲弥だ。出番は火曜日と水曜日を行ったり来たり。開始から一貫して出演しつづけ、朝生には「ラジオパーソナリティ」という冠で出たことすらあったというが、終了を待たずに09年12月をもって降板した。このころの宮崎は「スッキリ!」などいくつかの番組を降板しており、アクセスもそのなかのひとつになった格好だった。私がいちばん熱心に聴いていたのは(というかこれしか聴かなかったというのが)宮崎の回だった。このころの宮崎といったら、週ごとに「もう解散総選挙しかない!」とアジり、いまでは私事で記者の職を追われた武田一顕や、ご案内の通りの上杉隆と「政局観察三人委員会」の名で甲高い笑い声を響かせていた。隔世の感がある。  

 

この番組は放送が終わる間際の23時40分過ぎになると「アクセス特集」というパーソナリティのフリートークコーナーを流した。田中康夫えのきどいちろう二木啓孝といった面々がアシスタントの渡辺や麻木久仁子に好きな話をするだけ。例外が木曜パーソナリティだった井上トシユキで、彼だけは提供元のNECが仕切るコーナーでよくわからない相手とよくわからない話をしていた。他のパーソナリティよりも立場が弱いのかしら、とつまらぬ勘ぐりをしたものだが、以来私は井上が好きである。  

 

そのアクセス特集で、宮崎だけは毛色の違う「宮崎哲弥に訊け!」というコーナーをやっていた。内容は宮崎が自分で選んだ曲を流すというもので、論壇オタクに足を踏み入れかけていた私にとって魅力的な企画だった。最初に聴いたのはマット・ビアンコの「HIFI BOSSANOVA」だった記憶があるが、違う気もする。2、30秒ほど曲を選んだ所以を語り「(アーティスト名)で(曲名)です」ではなく「(アーティスト名)、(曲名)」というぶっきらぼうな紹介をするのがお決まりだった。  

 

このあいだ、ふと思い立ってこのコーナーの名前でネット検索すると、ひとつとして記事がないことに愕然とした。なんとか記憶があるうちに書き残しておかねばならない、と思った。  

 

さて、記事はひとつとしてないと書いたが、肝心の音源にはひとつだけ触れることができる。宮崎の最後の出演となった09年12月23日の回(https://youtu.be/zkCvztjSX34 )だ。この回で宮崎が流したのはミズノマリ「東京の街に雪が降る日、ふたりの恋は終わった。」。ここで宮崎は、98年10月6日の最初の出演で紹介したのは、トッド・ラングレン「Believe In Me」だったと語っている。  

 

私にとって印象深い選曲は、09年の夏前だったか、「政治は混迷を深めていますが、さわやかな曲を」という旨のことを言ってかけた、いきものがかり「ブルーバード」だ。キリンジの楽曲から『エイリアンズ』という書名をつける宮崎の姿といまひとつ重ならない選曲で、意外さが面白かった。  

 

覚えている限りでは、以下の曲を流していた。 

Akeboshi「Wind」 

Nona Reeves 「1989」  

benzo「落下ドライブ」 

paris match「CDG」 

paris match「空っぽの君と僕」 

斉藤和義「幸福な朝食 退屈な夕食」 

長谷川きよし「黒の舟唄」 

エルビス・コステロ「She」 

井上堯之「青春の蹉跌のテーマ」  

 

「最近昔の曲の番組にハマっている」と言ってかけたのは高田みづえ「私はピアノ」、忌野清志郎の死去を悼んで流したのはRCサクセション「SUMMER TOUR」だった。親しい友人が亡くなったといって選んだ曲があったが、それがまったく思い出せず残念である。  

 

livedoorしたらば掲示板に「てっちゃんねる〜宮崎哲弥〜」という、宮崎を軸に論壇の話題を扱う掲示板があった。いつごろなくなったのか記憶がはっきりしないが、11年ごろにはもうなかったと思う。私も浅羽通明のスレを立てて無視されるなどの愚かな行為をしていたが、ここで知ったところによれば、宮崎はアシスタント役の山本モナの降板にあたってはCORE OF SOUL「In Your Arms」をかけ、山本のスキャンダル発覚が起きるやBaby boo「一歩ずつの勇気」を流したそうだ。粋な心遣いである。Maroon5Sunday Morning」という選曲も紹介されていた。  

 

宮崎のキリンジフィッシュマンズ、ザ・バックホーン、小沢健二らへの嗜好は活字などの形で知られるところだが、「宮崎哲弥に訊け!」に関しては風化が進む一方だ。ぜひネットの集合知で、他の選曲を知る方があれば教えていただきたい。